鹿島美術研究 年報第8号
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⑬ 桃山時代絵画史の再検討研究者:北海道教育大学(札幌分校)教育学部非常勤講師川本桂子研究目的:永徳の様式を天正十三年の大坂城以前と以後の二期に分ける場合,安土城も含めて前期の障壁画は,金碧濃彩の手法を用いながらも画題や構図の上では室町の枠組みから完全には抜け出していない時代で,元信の大仙院に見られるような水墨淡彩の純粋の漢画系花鳥図の世界に,いかに金と濃彩を導入しようかと永徳が試行錯誤を繰返していた時期だと推察される(白鶴美術館の元信落款のある「四季花鳥図」屏風では,すでに完全に素地部分が消失しているが,これは,儀式等に使われる大和絵系の金碧花鳥図屏風をまねた調度工芸的な性格の屏風であって,その技法と様式が山水花鳥の障壁画にまで等しく及んでいたとは思えない)。一方,信長に代って政権の座についた秀吉の時代になると,主従関係を明白にし家臣団内部での序列を決定するためにあらたに「対面」という儀式を行なうようになる。大勢の家臣を一堂に集め自己のトップの座を認めさせ,臣従の誓いをたてさせるための舞台が大坂城・衆楽第に新しく造られる。それが大広間や対面所と呼ばれる大規模な建築である。そしてそこには,安土城にはなかった,十八畳以上の部屋が二間ないし三間も続く空前の大空間が出現した。永徳が,「唐獅子図屏風」に見るごとき金碧大画面構成の大画を描いたのは,このような威圧的表現を必要とする場所であったと考えられる。とすれば,今日我々が永徳の大画様式と呼んでいるものは,実は天正十三年の大坂城以降永徳の亡くなる天正十八年までの数年間かぎりの特異現象ということになる。従来は金をふんだんに使ったという安土城の障壁画に関する記述を深く吟味することなく,画題の豊富さや「御絵所皆金也」という表現ばかりに気をとらわれて,信長の時代と秀吉の時代が黄金賛歌・英雄趣味という点で連続し,まったく同質であるように思い込んでいたのではなかろうか。信長は自らの力で天下統一の道を歩んだ人物であったのに対して,秀吉はもともとは大勢の信長の家臣のひとりにすぎず,信長の天下統一の事業をいわばタナボタ式に継承したわけであるから,ほかの信長の旧家臣との間の差を強調し新たな主従関係を築く必要があった。その信長と秀吉の違いが建築にも障壁画にも現れているのである。絵画史も,社会的かつ文化的な枠組をしっかり見据えた上で捉えなければならないの-32

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