ァーの特異性を捉えることは,事象に即したポスト・モダニズム芸術の理解に通ずる。従来のアメリカ・フランス中心の美術史の視点に対して,ドイツ美術の精神性を重視する伝統を研究することは,未来の芸術の可能性の示唆を含んでいるように思われる。⑭ 木村蕪蔑堂とその画業に関する研究研究:大阪市近代美術館建設準備室研究目的:木村菊殴堂(1736■1802)は,大坂を代表する文人であり,池大雅に学んで自ら画をよくしたが,「兼簸堂日記」に伝えられるように,当時の学者・文人・画家を網羅した交遊の広さで知られる。その芸苑諸名家を結んだネットワークの中枢に位置するかのような,横への広がりあるその主体のあり方は,とりわけユニークである。ところで日本の文人画家たちは,中国文人画を理想としながらも,独自の形でそれを受容・展開してきた。例えば様式の問題としては,日本の文人画か,明代浙派や蘇州派など,正統な中国南宗画とは相反する北宗画系の作品や,室町水墨画,琳派まで精極的に吸収していることが,近年,明らかにされてきている。さらに,その主体のあり方においても中国本来の文人とは異なる日本的な「文人」のあり方が,最近においては,歴史学や文学研究などの学際的な視野から再検討されてきている。業績欄に記した拙稿も,初期文人画を代表する柳澤澳園をとりあげて,その独自の文人性について問題提起したものである。では,文人画家としての流段堂は,どのような位置づけを,その作品からすることができるのであろうか。これまで誰煎堂は,基準作として信じうる作例もまだ充分に確立されていない状態にあり,従ってその画業の実態についても深く掘りさげることができないままである。本研究では,兼段堂の基準作品を検証し,さらに兼蔑堂研究上,重要な岡田米山人,増山雪斎などの作品も検証する。そして,様式上の問題にとどまらず,薬殴堂がそのユニークな主体のあり方において近世絵画史に占めた独自の役割について考察を加える。なお,このことは,多数の文人画家を輩出しながらも,そのことの理由と意義が充分に解明されていない大坂という都市の独自性を再検討するための基礎研究でもある。橋爪節也-47 -
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