また,29歳制作の「佐藤一斎像」から45歳制作の「鷹見泉石像」まで多くの肖像画を残している。しかし,46歳の天保9年以降には肖像画は,制作していない。丁度,それと期を一にして蘭学への関心が高まるとともに,興味と関心の中心が海防問題に移っている。更に天保11年蟄居後にあっては,画風も一変し,特に天保12年には遺書をしたためるつもりで関係者に作品を残した。このように二,三の問題を拾っても彼の作画と思想形成の変遷には大いに関連があることに気付く。畢山の作画と思想との関連を究明することは,彼の芸術に秘められた謎を解くこととなろう。⑰ 京都画壇近代化に関する研究一棋嶺と栖鳳の比較を通して一研究者:京都市美術館学芸員廣田研究目的:楳嶺,栖鳳は各々に私塾(研究会)をもち弟子を育成し,同時に公教育の場として学校制度の中でも生徒に美術教育を行なった。大正,昭和期の京都画駁の日本画家のうち,8割が学校(京都市立美術工芸学校,同絵画専門学校)の教員,卒業生で占められていた事実がある。従ってこの2人は京都画駐の育成に力をそそぎ,また絶大な影評力を持っていたことは明白である。この2人の画風の比較研究並びに各々の周辺の画家の画風形成の実態を研究することは京都画盟の中核を対象に研究することであり,京都画坦近代化の様相を明らかにできるものと考えている。比較の内容は両者の絵画思想,絵画表現,教育思想,運筆手本などによる。栖鳳の資料については京都市美術館(勤務先),王舎城美術宝物館(広鳥県佐伯郡)さらに京都市内各所に分散している。この研究は京都を中心にしてはじめて実行可能なものと思われる。一方,楳嶺,栖鳳の没後時間がたっており,血縁者の死亡,移動,資料の亡失も多い。資料の収集と研究は急を要する。-49 -
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