鹿島美術研究 年報第8号
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(4) 教会堂全体,ないしは正面(ファチァータ)の全体の彫刻装飾を統一するような-22年)であろう。左プローティロのアーキトレーヴのくキリスト幼児伝>(受胎告知(特にニッコロに特徴的)をどのように捉えるかという問題。総合的なプログラムは存在していたのか否か。言いかえるなら,全体の複数の諸要素を結び付ける一貰した図像的プログラムのようなものが装飾計画を支配していたのかどうかという点。これらの問題に,この場で納得のいく解答を与えることはもちろん不可能である。また,イタリア・ロマネスク彫刻を調べはじめてまだ日の浅いわたくし自身,調査研究はその端緒についたばかりで,考察はまだまだ不十分な段階にとどまったままであることを認めざるをえない。ここでは,若干の観察結果と,文献から得られた示唆について簡単に触れて,今後さらに研究を続行し深めてい〈ための手懸りとしたい。まず,親方としてのヴィリジェルモと弟子としてのニッコロの関係であるが,この点で特に興味深いのは,ピアチェンツァのドゥオーモ正面の三つの扉口の浮き彫り(1121から東方三博士の礼拝まで)では,その様式は,モデナのドゥオーモ正面のヴィリジェルモの浮き彫りの様式を引き継いだノナントラ修道院正面浮き彫りのそれに非常に近い性格を示している。サルヴィーニはヴィリジェルモのいわばアルター・エゴとして,「ノナントラのルネッタのマエストロ」というエ人の存在を仮定して,この逸名彫刻家の手に帰しているほどである。その当否は別にして,同じこのプローティロのアーキヴォールト外面には,右に<洗礼者ヨハネ像>,左にく福音書記者ヨハネ像>が嵌め込まれているが,この二体はお互いに異なる特徴を示している。後者は,アーキトレーヴの様式と合致するのに対して,前者は,そのより豊かな裳の曲線や身体の軽快な動きの表現に,ヴィリジェルモ風のヴォリュームの安定感や緊密さとは異なる性質を見せているのである。このいわば「絵画的な」特徴は,右プローティロのアーキトレーヴのくキリスト伝>(社寺奉献からキリスト誘惑まで)で一層顕著なものとなる。恐らく,ここにヴィリジェルモの工房からしだいに独立していき,仕事を任かされていくニッコロの跡を見ることができるように思われる。しかしまた,ニッコロのこの形成は,同じくヴィリジェルモの工房で,モデナのドウオーモの「王子の門」の制作に深く関わったと考えられるエ人(サルヴィーニの命名によれば「聖ジェミニアーノのマエストロ」)の形成の問題や,研究者によってはピアチェンツァ以前に潮るニッコロ作とされるサグラ・ディ・サン・ミケーレの「黄道75 _

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