鹿島美術研究 年報第9号
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1747■1780)が,明らかにその影聾の顕著な作品をのこしているところから,早い時おいて形成されつつあったコレクションの内容が具体的に知られるものとして注目に価するものであろう。手紙には,これらの真隈についての天遊の評価はもちろんのこと,天遊の素直な印象も記されており興味をひく。またいずれの作品についても,現実的な価格についての評価も添えられている。沈南禎の扇面画が含まれていることにも注目したい。長崎派は全国各地へ飛び火し,意外なところでその影署かみられるようであるが,名古屋も無関係ではなかったようだ。その詳細は不明ながら,津田応圭(?■1780)や,山田宮常(竹洞の初期の師,期に名古屋の地に,新来の人気の作品・作風が入ってきていたことが分かる。地方においても,そう大きな時間差がなかったということであろう。天遊などのコレクターの家には,実に多くの人が出入りしていたことは,同一の作品の写しが,何人もの画家によって作られていたことからもわかる。一例をあげると,藍瑛の「懸崖吟眸」という作品である(現半田市個人蔵)。丹羽嘉言が写し(個人蔵),竹洞が写し(『竹洞縮図』所収,名古屋市博物館寄託),梅逸が写し(在米国),貰名海屋が写し(在米国),明治に至って三河出身の稲垣錦荘という人物も写しているのである(半田市個人蔵)。この作品が天遊その家ならずとも,同様のコレクターの所蔵にあったことは想像に難しくない。学習の好素材として評判となり,競って写しとったものであろう。内田蘭渚の書簡は,『十便十宜』帖に関する内容のものである。『十便十宜』帖が,下郷学海の企画によって蕪村と大雅に制作が依頼されたことは周知のことであるが,この手紙は,下郷家からこの帖が流出するいきさつを伝えてくれる。『古今中京画談』にその流出のいきさつが紹介されているが,おそらくその記述の根拠となった手紙と推定されるものである。全文は次の通り。(句読点は神谷)文化八年未十二月廿日,十便十宜画帖預り。ー,米切手金拾両かし。同九年申正月十日,ー,同三両,増金ゲ料二而大観堂へ渡ス。ゲ金拾三両かし。利足金壱両二付壱ケ月銀六分ツ、之引合。当未十二月迄十弐ケ年,凡利足ゲ壱貫百廿三匁弐分。内六拾壱匁弐分,正金壱両酉十二月廿九日,揮雲堂より受取。引残而,金三拾両弐分拾壱匁四分。右有増申候□十二月廿日前々御勘定出来不仕候ヘハ,直様望之方へ売払申候。其段御断申置候。御請戻シ被下候哉,御払二相成候也,両様之趣,急便御報奉希候。以上。文政六年未十二月既望,蘭渚,-78 -

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