鹿島美術研究 年報第9号
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八橋山御院主様。内田蘭渚から,八橋(三河)の無量痔寺の僧売茶(通称八橋売茶)にあてたもので,内容は次のように読める。文化8年に『十便十宜』を借金のかたに,13両を貨したが,ほんの一部は返金があったものの,滞納が続き,12年後の今(文政6年12月)では,元金ともで30両余となっている。今月20日までに完全返済しなければ,売り払うと通告している。ここには下郷の名は出てこないが,名を名乗って直接借金をするのをはばかって,親しかった八橋売茶を通じておこなっているということは,所蔵する下郷氏の推定されているとおりであろう。借金をしたのは下郷伝芳であり,この最後通告(?)が出されたときには,伝芳はすでに亡くなっていた。伝芳は,この蘭渚とともに「蓬温勝会」を企画した仲であったが,こと金銭に関することでは厳しいものがあったようである。なお,下郷家に関し,その本家には,松尾芭蕉も頻繁に出入りしていた。当主の残した日記には,芭蕉の来訪したことを含め,文雅の士との交流のさまが詳細に記録されているという。残念ながら現段階では見る機会に恵まれていないか‘,全文の公開あるいは紹介が望まれるところである。名古屋の地からは,はやく影城百川が出て,南画・文人画の先駆者として活発な活動をおこなった。その活動は,俳諧関係を除いて,名とはならなかったが,文人画理論や,その様式的な基礎となる作品が,意外に早い時期から地方へ入ってきており,文人画普及の地盤を用意していたことは十分想定できる。天遊あるいは,下郷の例は,その証拠といえるであろう。という地方域に根付くもの79 -

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