鹿島美術研究 年報第9号
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⑨ 鎌倉・南北朝時代における中国絹織物の受容について1197■1276)は無準師範の法を嗣いだ南宋時代の禅僧で,文応元年(1260)に来日し,研究者:京都国立博物館学芸課主任研究官河上繁樹『宋史』(食貨志互市舶法の条)には海外諸国への輸出品の主なものとして,「完器」と並んで「吊」つまり絹織物が挙げられている。北宋時代には華北の地域で錦,綾,刻糸(絹綴)などの高級絹織物を産し,江南の地域では羅,紬,平絹のような絹織物が中心となっていたが,南宋時代には江南でも高級絹織物の生産がおこなわれるようになった。こうした宋の絹織物は商業目的で日本にも輸出されたが,それとは別のルートで日本にもたらされた絹織物があった。すなわち,禅僧がもたらした袈裟などの染織品である。商業的なルートで輸入された遺品がほとんど残されていないのに対して,禅僧がもたらした染織品は,伝法衣という性質上大切に保管されてきた。京都では東福寺,大徳寺,南禅寺などの禅刹に宋から元時代の遺品が伝存している。昨年は京都の東福寺・正伝寺や,佐賀県の万歳寺・高城寺の各伝法衣類を調査する機会を得たが,本稿では南宋時代の特色が顕著な顕紋紗を用いた正伝寺伝来の2領の伝法衣について取りあげて報告したい。洛北の正伝寺には冗庵普寧関係の遺品が伝存している。冗庵普寧(宗覚禅師,時の執櫂北条時頼の要請によって鎌倉建長寺の第2世となるが,時頼の死後,文永2年(1265)に帰国した。冗庵の在留は短かったが,その法は東巌慧安(宏覚禅師,1225■77)ら宗覚派に受け継がれた。とくに東巌は弘長2年(1262)鎌倉建長寺の冗庵に謁して法を嗣いでいる。『東巌安禅師行実』によると,東巌は帰国を目前にする冗庵から頂相と伝法衣を授かった。その東巌が開創した正伝寺には,東巌が冗庵から授かったと考えられる頂相と伝法衣が伝えられ,その伝法衣は2領が現存している。1領は冗庵の師無準師範の伝法衣として伝えられた九条袈裟である。田相部には,鶴が翼を丸めた直径3センチ程の丸文を織り出した黄色地の綾と,同じく太細数本の筋を重ねた格子文の黄色地の綾を矧ぎ合わせている。これらの綾はどちらも経6枚綾地(Z流れ)に緯6枚綾(S流れ)で文様を織り出した綾である。これと同じ組織の綾は唐時代には見られず,宋時代になって織り出されと考えられ,日本での遺例は鎌-80 -

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