鹿島美術研究 年報第9号
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無本覚心の頂相は覚心が没してから17年後の正和4年(1315)に一山一寧が賛をよせており,その頃に製作されたと考えられる。像は曲象に坐し,灰藍色の直綴に,袈裟を着した姿であらわされているが,その袈裟に描かれた文様に注目される。袈裟の縁や葉には黄地に金泥で華やかに植物文様が描かれている。肩の部分には大振りの牡丹花が描かれ,同様の牡丹花は左膝近くや左手に掛け垂らした袈裟の一部にも見られる。払子を握る右手の下方には,輪郭だけをとらえた大振りの牡丹花をあらわしているが,各々の花びらのなかには小花を揺き入れていることに気付く。そして,間の地にはゆるやかに湾曲する蔓に椿の花や菅をつけ,あるいはその他にも小花を描いている。蔓は部分的にい,さらには枝の先に綬が結び付けられている。袈裟の田相部は青みのある褐色をし,文様は認めにくい状態であるが,同様な牡丹文を群青で描いた痕跡を残している。この袈裟の文様における詳細な描写は,これを描いた絵師が無本覚心の実際の袈裟を眺めて描いたであろうことを思わせるが,この頂相に描かれた袈裟は,文様の特色からみて正伝寺の伝法衣と同様,南宋時代の特色を示している。特に,正伝寺の無準師範所用とされる伝法衣の顕紋紗の文様は,牡丹の花弁のなかに小花文を入れている点や,椿の表現,また綬が結ばれていることなど,無本覚心の頂相に描かれた袈裟の文様と多くの類似した点が指摘できる。無本覚心がこうした袈裟を入手する可能性としては,師の無門慧開からの授かりものが考えられる。『闘明國師行実年譜』によれば,無門慧開から無本覚心が伝法衣を授かったのは文応元年(1260)のことと伝えられ,この年は冗庵普寧が来日した年でもある。このように,およそ13世紀中葉には,先に指摘した特色のある南宋の絹織物が日本へもたらされていたと考えられる。正法寺の2領の伝法衣を納めた袈裟箱には,天保4年(1833)入記が貼付されている。それによれば,かつて無準師範,冗庵普寧,東巌慧安の法衣各1領が伝えられていた。しかし,このうち冗庵普寧所用とされる田相部に唐白木線印金,葉に黒地錦を用いた袈裟は,すでに明治時代以前に紛失したという。現存する2領の袈裟は,入記に従えば,無準師範と東巌慧安の所用とみなされるが,2領の袈裟は前述の特色からともに南宋よりもたらされたと考えられる。無準師範は淳祐9年(1249)に没しており,淳祐3年(1243)の黄昇墓から発掘された絹織物とも類似していることから,1 ようとなり,葉の一部は輪郭を抜いてなかに小花をあしら-82 _ よう

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