鹿島美術研究 年報第9号
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⑩ 鎌倉彫刻史における作者・施主・勧進僧関係についての研究が東大寺再興に際して大仏殿に石造脇侍•四天王像を加え,南大門から中門を遠望す研究者:東京芸術大学文部教官助手本研究は第一に,運慶と共に多くの造像活動にたずさわった勧進僧・神護寺文覚の活動の全容,その勧進活動の歴史的性格,造像内容へのかかわり方を関連史料によってあきらかにすることにつとめた。東大寺復興勧進である俊乗坊重源と並び称されながら,遣構遺品の乏しさから,この点,知られるところが少ないからである。詳細はここに割愛するが,総じて文覚の再興活動は「堂塔仏像等は,昔より定め置かるる所の事等,更にもって改易せしむべからず。」「往古より建立する所の堂塔修造のほか,私諏して堂舎を建立すべからず。」という復古的姿勢の強いものであった。俊乗坊重源べく岡を取り払い,さらに六角七重塔を計画するなど「輪英またなお巧思を加ふるが如し。」「古跡を超ゆ。」とされたのとは極めて対照的である。文覚においても造像における運慶や絵画における詫磨派の採用などは新しい選択なのであるが,再興にあたっては模刻や模写を重視し,流出した寺宝の回収に努め,重源に比してその再興方針は伝統重視であり,制作者等の宋風摂取も一定に規制されていると思われる。運慶においては,東大寺南大門仁王像(建仁3年ー1203)以降は宋仏画形式の利t極的受容が認められるが(拙稿「東大寺南大門仁王像の図像と造形」),快慶に比してその受容は遅<慎重である。むしろ運慶は当初,重源よりも文覚の方針下にあって,その影靱を受け,文覚の失脚(正治元年ー1199)をひとつの転機として,宋代仏画形式受容に績極的に踏み出したのではないかと考えられるのである。文覚とその施主・源頼朝との関係,両者の政治的趨勢と運慶の造像活動の「場」とのかかわりについては,既に述べたが(拙稿「晩年期の運慶」),文覚の運慶への影秤は,単に「場」の問題にとどまらず,以上の面からも考えて見る必要がある。当初の研究計画においては,文覚が建久8年(1197)に高野大塔造営奉行賞として紀伊国阿豆川荘下司職を得ていることから,建久8■ 9年に造像されたと伝えられる高野山不動堂八大童子像も,文覚の復興活動と何らかの関係があるのではないかと考え,その造立背景の研究を第二のテーマとしていた。不動堂建立者として『帝王編年記』『高野春秋』にその名の見える行勝を行慈,性我,厳慶などと同様の文覚配下の勧進僧の一人と予想し,行勝一文覚の関係を明らかにすべ〈高野山関係文書等を調べた84 -熊田由美子

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