のであるが,その関係は明らかにしえなかった。ただし行勝について調べるなかで,新出の史料ではないが,従来の高野山八大菫子像研究において看過されている貴重なー史料に注目するに至った。『高野山文書家わけ第六四太政官符』(『大日本史料第四編之ー四』にも所収)は,作者名や造立年次についての記述はみられないか延應元年(1239)の年記をもつ点で,高野山八大窟子像に関する最初の史料であり,造立経緯について記すために,記述内容の暖昧な『帝王編年記』や後年の史料である『高野春秋』などの内容を検証でき,その不備を袖うことができる。また,この史料は高野山八大窟子像造立における施主一勧進僧ー作者関係について知るうえで,一定に参考になるものである。以下,抄録して,その要点を記す。「ブ、<正文1言牒高野山應為公家御祈願所汎『山一心院事,右太政官今日下治部省符備,得院主椛大僧都法眼和尚位道勝,去嘉禎四年五月廿十I奏状俯,謹考初買,貨山者,弘法大師親l、勝定,而期三會花林之地,慎言上采盛令繁而葛八葉連嘉:之峯也,因筑ー天伎頭,四海合掌,笈故行勝上人,結方丈草庵於‘常山,立議摩火恥於此1i切,斯五穀之滋味而六十箇年,修三時之設摩而二萬餘日,練行倫少,修年久,故質賎成婦依,細索致励喜,遂依多年宿願,忽建立一伽藍,堂塔,僧坊,鐘槻,経蔵,成風之構接杞,土木之功並悦,即琥之一心院,本堂安置不動壼像井八大童子像,一堂者安置阿禰陀三堺雨界曼荼羅,以常山楡校以下宿老之岬侶散輩,補供僧,長日之行法並勤,三時之履摩無怠,}JIl之,有鉦日朝暮之例時,有九旬安居之供花,種々之所作一一令紹隆,然間,劇東故右大将軍,惣儒ー山,別蹄常院,以鎖西山鹿,粥田而庄所常ニ百石,限永代,配慨護摩用途,毎年無僻怠令運送常院,已及四十年,(以下中略)延應元年二月八日修理東大寺大佛長官正五位上行左大史小槻宿訓(花抑)牒」現在の高野山不動痰は,一心院谷から明治四十一年に移築されたもので,鎌倉前期の仏噛であるが,建築史的には建久9年までは遡りえないとされている。一心院谷には他にも不動堂があったようであるか,安置仏に「八大窟子」を記すのは,現不動堂の前身堂字のみであり,上記の八大窟子像は現存像を指すものとみてよいであろう。ただし不は筆者)-85
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