鹿島美術研究 年報第9号
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動明王像については他堂のものと替わっている可能性もなしとしない。本史料によって次の点が確認しうる。① 「関東故右大将」=源頼朝の一心院不動堂への帰依寄進が確認できる。「及四十年」とあるところからみれば,早く創建の段階から帰依があったとみてよいであろう。これによって『高野春秋』にみる頼朝の「庄園寄付状」の具体的内容が明らかとなる。近世史料であるが旧記に基づくとする「蓮華定院開祖行勝上人記」には,行勝について「殊に鎌倉頼朝卿帰衣の僧なり。ちなみにここ一心院諸伽藍は,皆是頼朝卿創建なり。」とあり,実質的な檀越は頼朝であったとみるべきであろう。頼朝の庶子・貞覗が行勝を慕ってその室に入り,師の死去に際して千鉢地蔵菩薩像を作らせているのも,頼朝一行勝の縁に始まる事と思われる。② 一心院の堂塔の建立が,行勝上人自身の多年の宿願であり,賞賎の帰依をあつめて成ったこと。経緯を詳しく記しながら,ここには発願者としての女院名はとくに記されていない。高野山不動堂については『帝王編年記』にみる発願者女院名(陰明門院)と『高野春秋』にみる女院名(八条女院)が異なるなど,発願者の特定が困難であったが,上記文意からは,実質的には上人自身の発顧とみるべきで,貴賎の帰依者のうちの名目上の発願者としての女院名であったために,四十年ほどの歳月にしてすでに明らかでなくなっているのであろう。③ 行勝上人の修験者的行者的性格。これについては「玉薬」「玉葉」などの同時代史料にも「件聖人知法無双の人なり,不動尊に帰り奉るの外,他無し」「件上人不動持者,効験殊勝之人」「此日行勝上人を請じ,大将受戒せしむ」と記され,高野穀断上人,不動持者として九条兼実一族の聰崇をもあつめたことが知られる。その他ここでは割愛するが,高野山に行勝の事蹟は少なくない。また行勝上人は「僧房仏閣等を修復し草創し給へる事,具にあぐるに退あらず」とあるように勧進僧の面ももっていたようで,一心院本堂不動八大童子像もそうした活動によって造立されたとみるべきであろう。高野山不動堂八大童子像(うち当初像は六躯)は,その作風と胎内納入銘札から,運慶および同工房の作に比定されている。近年その「端厳とした都ぶり」の作風は,願主が八条女院であることに拠るのではないかとの見方が示されているが(伊東四朗氏「高野山不動堂の八大童子像と運慶」),上記史料にもとづく施主関係の考察では,女院以上の行勝上人の存在が大きな位置をしめていると考えられ,この点は像86 -

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