容からも指摘しうる。すなわち高野山八大窟子像の図像は,『四家紗図像』,醍醐寺本『五大腺図像(甲本)』のうちの不動曼荼羅,および『別尊雑記』巻三十二所収の不動明王八大菫子像などと同系統の図像であって,田中本『不動儀軌』,東寺本『不動明王図像』などとは異なることが指摘されているが(伊東氏前掲論文),行勝はほかならぬ『別腺雑記』の作者である常喜院心覚に灌頂をうけた人物であり,心覚も保元元年(1156)頃より治承四年(1180)頃まで高野山にあった。図像内容はこうした師弟関係からも,行勝自身によって選択されたものとみるべきであろう。本像の典拠である『聖無動雌一字出生八大童子秘要法品』にみる「八大窟子」の図像と『諸山縁起』にみる「八大金剛窟子」の彩色・持物には共通するところが多い。修験道における「八大金剛童子」の図像形成は,元来その担い手であった園城寺派や醍醐寺派の行者僧等によって『秘要法品』のような密教経典から編み出されたものであろう。後代の「熊野曼荼羅」にはしばしば八大金剛菫子が大峰の象徴として描かれるか,あるいはその生成期ともいえる鎌倉初期の段階では,『秘要法品』の八大童子そのものがそうした謡味を担ったのではないであろうか。行勝自身が大峰金峰修行の人であり,そうした修験者はしばしば「窟子」を護神として崇拝した。「大峰通るには,仏法修行する僧ゐたり,唯一人,若や子守は頭を撫でたまひ,大菫子は身を護る。」(梁殷秘抄)高野山八大窟子像の造立において,行勝のもつ役割は謡外に大きいようである。頼朝,貞瞭や九条兼実,道家と親交をもった剛毅な行者的密教僧としての個性は文覚上人にも通じるところがあり,運慶への影翠堺も少なくなかったのではないかと推測される。作品そのもののもつ童子観に即しながら,この点をさらに考察し,願成就院二童子像から高野山八大窟子像への飛躍を生み出した契機を明らかにすることが今後の課題である。-87 -
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