鹿島美術研究 年報第9号
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3.伊達政宗自作の和歌(1659■1709)が五代藩主となるべき吉村の命によりまとめた「黄門政宗公御詩歌稿」玉晶敏子氏によって詳細に紹介された(「近世初期の屏風と書と料紙装飾」美術史117昭和60年3月31日発行),近衛信手や烏丸光広らの京都の文化人が作り上げた桃山時代らしいおおらかな美の世界に属するものと思われる。幾度かの上洛の機会を通して彼との交際があり,その中で培われた政宗の美意識が,このような作品を生み出したであろうことは考えられることである。さて,政宗自作の和歌は一体どのくらいあるのか。江戸時代の資料として,政宗の作品を最大限に収録しているのは,仙台藩四代藩主綱村の祐筆であった首藤知平である。一部重複もあるが,和歌334首漢詩30を収め,元禄16年(1703)4月下旬にまとめられた。以後たくさんの写本を生み出している。今回調査することのできた香川大学付属図書館所蔵の「仙嚢黄門公御詠」も,そのような写本の一つであった。猪苗代兼与に古今伝授され,近術信尋に和歌の添削を受けた,政宗の和歌は創作の基礎を踏まえたものであった。しかしながら,その作品には東北人としての政宗の面目躍如といった面がないわけではない。彼が生きた東北の地のもつ地方性が和歌の中に現れるのである。山形地方では早春の食物となっている「あけびのもえ(芽生え)」を和歌に詠みこんでみたり,厳寒時に手にできる「ひびあかがり(ひびあかぎれ)」を文学作品の中に禅入してしまう。狂歌においては政宗の言葉はさらに滑らかさを増す。たとえば,人のもとへ振舞に行て飯遅く出てければいかなれば飯は遅いぞ昔よりぜんは急げと我は聞く物煎餅を三日月のなりに喰いて喰いかけは次第に細くなりにけり残り少なき三日月の影これはほんの一例である。政宗は身近に使える家臣を笑い,食べ物を笑い,世の中を笑い飛ばす。その笑いが風刺を帯び,杜会性を得るまでには至らないが,戦国武将における笑いの一端を知ることができる。それは,能楽と共に発達してきた笑いの芸・狂言の発展と軌を逸にしており,政宗の狂歌が主に言葉の遊びである洒落に終始していることを考える時,言葉遊びとしての狂言の影評,ひいては能楽の影評を,政宗の狂歌の中に読み取ることができるようにも思われるのである。95 -

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