られる。では,その未完成品を陸などで刻み仏像として完成させる役は,鋳造者が担ったのだろうか。先にも述べたが,武蔵国に伝来する金銅仏は素朴な像が多く,中央仏師が制作する木彫像のような洗練された像は少ない。その原因は仏像の鋳造を専門としない在地の鋳物師たちが制作するからであると考えられてきたが,この金井遺跡を見るかぎり,日用雑貨と仏具(梵鐘や仏像を含む)が同じ工房のなかで制作されていた様子がわかり,仏像の鋳造が専門的な職種ではなかったことが推測できよう。少なくとも武蔵国の小金銅仏に関しては,在地の鋳物師たちが原型の制作から鋳造をへて表面の仕上げにいたるまで一環して携わっていたと思われる。埼玉県東松山市・吉田家蔵の文応元銅造薬師如来像の作例を側面から見ると,前面へ突出する腕の長さが極端に短く,出来るだけ像本体との遊離部分を設けずに鋳造したいという作者の意図が見て取れる。これも技術の未熟さを示すものと思われ,複雑な構造の像を鋳造する技術を持った専門的な仏像鋳造技術者の作とは考えにくい。また,埼玉県狭山市柏原には,室町時代から江戸時代初期にわたって活動した鋳物師集団・柏原鋳物師の存在が知られ,具体的な遺品としては,文明元年(1469)銘懸仏をはじめ多くの金工品が同地周辺に現存している。この柏原鋳物師は代々神田姓を名乗ったが,「大工神田」の銘がある狭山市円光寺の元亀3年(1572)銘銅造観音立像も,その像容は素朴で,両腕は体側に短くかたち作られるだけで,手首より先だけが不自然に突出している。おそらく,この像も在地の鋳物師が鋳造した像であろうと考えられる。さて,埼玉県坂戸市・金井遺跡における仏像鋳型の発見は,武蔵国の中世金銅仏の制作状況を考える上で賞重な存在であることがわかったが,残念ながら現在の所,旧武蔵国内に金井遺跡以外の仏像鋳型発見の例はない。近年急速に増加しつつある中世遺跡の発掘か,さらに進めば関連遺品の数も増えていくであろうが,それは今後の報告を待っしかない。そこで,今後の展望をふくめて,本研究のなかで見いだされたいくつかの鋳造鋳型の査料を提示してみたい。栃木県芳賀郡市貝町・多田羅遺跡の11世紀竪穴式住居趾より出土した仏像鋳型状の遺物(全高6.5cmX全幅7.4cm)がある。ただし,この遺跡の発掘状況からは鋳造に関する他の資料は発見されず,本資料のみが異質なものとされる。実見したところ,坐像・立像二体の姿が刻まれており,坐像を中諄とする三尊仏の鋳型かと考えたが,鋳年(1260)銘銅造阿弥陀如来立像や埼玉県所沢市・越阪部家蔵の元徳4年(1332)銘-99 -
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