cm)がある。1981年刊行の報告書によれば,「鋳造の工房趾と推想させるものを検出で造遣跡からの出土でない以上,博仏型の可能性もあり即断は出来ない。埼玉県坂戸市・金井遺跡の鋳型に比べ,土の粒子も細かく,像容も細かいことから,かえって漿などでの仕上げを必要としない博仏型の可能性が高いとも思われた。長野県長野市・駒沢新町遺跡出土の懸仏鋳型と称される遺物(全高10.6cmX全幅7.8きた」との記述もあるが,その後の調査の内容は不明である。鋳型を実見したところ,光背をともなう坐像と立像2体の姿が刻まれており,やや法量の大きい坐像を中尊とする三腺仏の鋳型と思われた。像の奥行は比較的深いが,光背が刻まれていることから,この鋳型を前後型の前部とするよりも,半肉彫りの型と考えるべきであり,懸仏鋳型との説が妥当かとも思われる。この長野市・駒沢新町遺跡の資料は,10年以上も前に発掘されながら,あまり知られることのなかったものである。考古学において中世の鋳造遺跡に対する関心が高まりつつある今日,このような資料を再認識していくことにより,研究の進展も可能であろう。今後も調査を続けていきたいと思う。最後に,鍛冶職についても若干述べておきたい。旧武蔵国には中世以前の鍛冶及び製鉄遺跡が,現在の所50数例発掘されている。また,10■12世紀にかけて300氏族にも及んだとされる「武蔵武士」の武器武具類を調達するには,在地の鍛冶職人の存在が不可欠であったともいわれている。これらの鍛冶職人たちは,概ね鉄を扱った職人であったようだが,坂戸市・金井遺跡のように鉄と銅を兼業とする工房の存在が証明されると,鋳物師と鍛冶師との職域を再認識しなければならないとも思われる。古代より銅の産地として知られた秩父地方を背後に控える武蔵国において,銅の精練・鍛造・鋳造がいかにして行われていたのか,その研究は美術史の面からも大いに興味のある課題だと思う。-100-
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