⑭ 8-9世紀のローマ。キリスト教美術における「再生」について一方この時期に過去の作品の修復が56fl"^•も行われた理由とその結果をどのように研究者:新潟大学教育学部助教授近藤フジェ北方の宮廷を中心としたカロリング朝ルネッサンスとは別に,8世紀末以降ローマでも大規模な建築と装飾に伝統の「再生」が認められる。カロリング朝によるローマ帝国の支配の回復とその指迎者シャルルとローマ教皇の同盟は,政治的にも過去のキリスト教ローマ帝国の再来とみなされた。それは偶像崇拝をめぐるビザンティンとの完全な対立,西方におけるビザンティンの影靱力の後退と時期を同じくしていた。教皇書に記された諸教皇の芸術活動の記録は!),東方における聖画像論争の経緯に正確に反応しているように見える。726年のイメージ禁止令の発布当時ローマ教皇であったグレゴリウス2世(715-731)伝には,イメージ,壁画の数各1に対し,金属細工20,調度品2'修復3とある。これを在位期間が等しいセルギウス1世・(687-701)伝の,イメージ5'モザイク1'銀細工奉納品13,調度品3'建造物1,修復8の数と比較すると,セルギウス時代には活動が多方面にわたり活発であったばかりか,イメージ,壁而も他の工芸品に比べ特に少ないわけではない。それに対してグレゴリウス時代にはイメージ,壁面の数が他に比して著しく少ない。この教皇が偶像崇拝禁止令を受け入れなかったにも関わらず,ローマでも聖圃像の制作が自粛されたことを暗示する。むしろ圃像擁護の立場は後継者グレゴリウス3世(731-41),ザカリアス(741-52),ステファヌス2世(752-75)時代に明らかになり,イメージ制作の再開が認められる。更にハドリアヌス1世(772-95)時代には圃像,工芸,掛布,修復の数が激増する。この背景には787年のニケーアの宗教会議で皇母イレーネによるイメージ解禁の決議があったと考えることかできる。えればよいのか。ハドリアヌスによるサンタ・プテンツィアーナ聖党,続くレオ3世によるサンタポリナーレ・イン・クラッセ聖堂,サン・パオロ・フオリ・レ・ムーラ聖堂,それに時期は不明だかサンタ・マリア・マジョーレ聖堂のモザイクの修復が指摘されている。修復は過去を評価する滋識的な行為であると同時に,その結果過去の芸術が再生されることもありうる。修復がしばしば修復当時の手法で行なわれている事実は,過去の作品から学んだものが形態的,様式的なものよりも,「目で読む」ことのできる図像の領域に限定されていたことを謡味する。101-
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