鹿島美術研究 年報第9号
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New York, 1975)。ガイストによれば,ロダンにみられるような劇的な要素を排除し,ティティーを求めようとしたときそのような子供時代を過ごした世界に遡行していったことは充分想像できる。実際,その日常生活において,プランクーシは,白いルーマニアの羊飼いの服を着用し,白い漆喰でつくったアトリエは,ルーマニアの農村風の調度で飾られていたという同時代の証言も数多くみられる。そして,自らの作品について多くを語ることがなかったこの巨匠の口からたまにこぼれる言辞はひどく象徴的で超越的な雰囲気のものであった。そこにヨーロッパ文化の周縁,つまりヨーロッパ近代主義に毒されていない異界からきた賢者の姿をみようとすることは自然なことといえよう。プランクーシ自身もそのような周りの反応を意識しなかったはずはない。しかし,ブランクーシはある種の慎重さをもって,微妙に自分の作品がルーマニア的なものと限定されることを避けていたと思われるふしがある。それが,ブランクーシ作品の起源をルーマニアに求める上での決定的な限界ということができよう。一方,ジャノーより少し遅れてブランクーシ研究と全作品カタログをだしたシドニー・ガイストは,プランクーシのルーマニア的要素をみとめながらも,時代の子としてこの彫刻家を位置付けようとしている(SidenyGEIST, ~ the ある種の諧諒性を盛り込んだところに時代の子としてのブランクーシの特徴があるという。ガイストの指摘を待つまでもなく,ブランクーシの作品を細かくみてゆくと,特にその初期には随所に同時代の影響をみることができる。例えば,後のブランクーシの抽象的な卵形のフォルムヘの決定的な道を拓いたと考えられる初期の赤ん坊の頭部を表した作品には,当時の高名な記念碑彫刻家ジュール・ダリューからの引用をみることができるし,くポガニー鍛>シリーズの初期の作品には明らかにアール・デコの形態処理を認めることかできる。最近ではロザリンド・クラウスが,オプジェの発生,および機械的な形態の使用という点でブランクーシとマルセル・デュシャンの親近性を指摘している(RosalindE. KRAUS,~'1981)。さて,このふたつの異なった傾向の研究を踏まえつつ両者の重なる部分を探ることは可能だろうか。ウド・クルターマンは,その小論のなかで,ブランクーシが自らの<レダ>を,ゼウスではなくレダが白鳥に変身しているところだと説明していることを例に挙げ,ブランクーシにおいては時として明らかな神話の読み違い,捏造があると述べている(UdoKULTERMANN, "Brancusi's Leda and Symbol of Woman", -106-~'New York, 1967. Sideny GEIST,~'

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