162冊,カタログ類28冊,雑誌等定期刊行物56点,その他3となっている。プランクーシ・アルシーヴには,個展や作品売買,および材料の購入に関する手紙など,日常的な伝票や契約書の類,友人からの葉書,アメリカで巡回した展覧会に関する新聞記事のスクラップなどが含まれる。結論から述べると,残念ながら上記資料の中には,ミラレパの伝記も,「死者の書」も含まれてはいなかった。プランクーシ・アルシーヴに含まれる資料が1920年代後半から1930年代のもののみに限定されていることと考えあわせると,幾つかの資料は国立近代美術館に入る前にすでに抜け落ちていたことが想像できる。プランクーシ自身は身寄りがなかったので,遺産管理は1948年以降没するまでプランクーシの身辺の世話をしたアレクサンドル・イストラッチ氏の手で行われていた。同氏は最近亡くなられたと聞いているか蔵書のうち何冊かが彼の手もとに残ったということも考えられる。ブランクーシにおけるエジプト的な要素については,近年ラデュ・ヴァリアも指摘していることだが(RaduV ARIA, Brancusi, New York, 1986),形態のうえでよりむしろその生死観,魂の永遠性といった根本的な思想の部分でプランクーシとの親近性を見て取ることができる。それがもっとも端的なかたちで表されたものが「死者のであろう。象形文字で書かれた「死者の書」を最初に翻訳したのは1867年大英博物館のエジプト学者サムエル・バーチであったといわれる。その後何人かの翻訳者により版が重ねられたが,そのどれか仏語で書かれたものをブランクーシが持っていたとしても何ら不思議ではないだろう。特に「死者の書」の発見者が有名なフランスのエジプト学者ジャン・フランソワ・シャンポリオンであったこと,19世紀以来多くのフランスの画家たちが彼の地へ夢を馳せていたことを考えあわせるならば,当時のパリでそのようなエジプト学的なものが決して特殊なものではなく,広く詩人や芸術家に知られ愛読されていたことは充分想像できる。ブランクーシがそのような状況のなかで「死者の書」に接し彼が漠然と考えていたことが具体的な形をとるようになったかもしれない。それがいつ頃おこり,ブランクーシが実際にどのような本を持っていたかについては今回の調査ではあきらかにすることができなかった。この点については今後の調査に託するものとしたい。さて最後に今回の調査において所期の目的とは別に新たな広がりをみせた部分について若干触れておきたい。それは,プランクーシの蔵書である。すでに述べたように現在保存されている単行本は,162であるが,そのなかにはラ・フォンテーヌ「寓話」,-108
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