(1517)土佐光信の作である。歿年未詳ながら光信晩年の筆と推定されているものである。となると『長谷寺縁起絵巻』は,光信の影響が未だ消えやらない,おそらくは光茂の若い頃と推定されるのである。これに関連して興味をひくのは,古筆了佐の鑑定である。すなわち詞書の筆者を近術尚通の手と鑑識する。尚通は,当代の絵巻の詞書に数多く揮奄しているが,現在までに筆者が確認し得たものは,0『清水寺縁起絵巻』上巻第一〜第六段詞書東京国立博物館蔵永正十四年(1517)0『酒伝童子絵巻』上巻詞書サントリー美術館蔵大永二年(1522)0『当麻寺縁起絵巻』中巻第一〜第三段詞書当麻寺蔵享禄4年(1531)などがある。今回これら尚通の基準作とこの『長谷寺縁起絵』の詞書の文字を字比較した結果,これまた伝称通り尚通の筆であることが確認された。ところでこれと関連してまことに注目すべきは,尚通の日記『後法成寺関白記』(陽明文庫蔵)である。すなわちその大永三年(1523)九月舟日の条に,(前略)長谷寺縁起一巻詞書畢進大樹即可致進上之由典厩申返事也とある。尚通は確かに「長谷寺縁起」の詞書を書いていたのである。が,日記では“―巻”とのみある。現に長谷寺に遣された尚通詞書の縁起は六巻本であった。では日記所載本と六巻本とは別本なのであろうか。結論から述べれば,両者は同一本と見倣して間違いないだろう。となれば六巻本は,光茂の制作年代の判明する基準作となる。しかもこの同じ大永三年に光茂は絵所預職に任せられており,光信はおそらくこれ以前に亡くなったものと推定されているのである。六巻本は,光茂の比較的早い時期の作となる。先に本絵巻の作風に光信からの影靱が色濃いことを指摘したが,早期の,若い頃の制作となれば,これに光信の影聾が見られることは当然であろう。ともあれ『長谷寺縁起絵』六巻本は,土佐光茂の基準作として極めて貰重な位置を占めるものといってよいだろう。-116
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