たはずである。宝暦·明和•安永期というピーク以来,明治まで繰り返し再版行される作品も多く,場面展開,画面構成といったものをよく踏襲している。一枚絵よりもかなり忠実な作業であったことは,政信・豊信の一枚絵より絵本に多く図柄の借用例が見つかることでもわかる。上方では祐信没後のこの時期,祐手はもちろん雪鼎などの絵本に祐信の図柄・絵本体裁に倣う部分を多く見ることができる。雪鼎の画には力強い個性的な魅力もあるものの,上方では祐信亜流にとどまる作品が多い時期でもあったようだ。それに対して,江戸においては,図柄などを積極的に取り入れながらも,画風としては江戸浮世絵の様式の流れを大きく外すものではなく,江戸浮世絵としていきいきとした個性を発揮する。宝暦期紅摺絵作品は繊細優雅な作風傾向にあったが,すでに享保期頃より見られた作風が徐々に熟成されたものと考えられる。祐信の画風が影聾しなかったわけではないが,むしろ図柄の上で江戸浮世絵の意図するものに合致したのであり,上方の祐信亜流の作家の作品とは大きく質を異にする。祐信,守国,春卜らの絵本は江戸浮世絵画製の粉本として大いなる役割を担うこととなった。守国や春卜の絵本は,もともと粉本を意識して制作された部分が多く,流派の確立が少なく,教材に乏しかった浮世絵界においては格好の気安いお手本であり,浮世絵師にとってこれほど便利な図案集はなかったのである。狩野派の粉本などは,そこに属さなければなかなか見ることのできないこともあり,鶴沢探山門人であった守国や,やはり狩野派を学んだ春卜の絵本などは市井の画家に大変発刊が待たれていた絵本もあるという需要の長さによっても,これら上方絵本の担った役割の大きさを認識させられる。享保期後半には江戸でも祐信の絵本が売られるようになったが,その中でも早くから祐信の絵本に注目し,積極的にそれを取り込もうとしたのは政信であったと思われる。政信の『絵本小倉錦』には多く祐信の『絵本常盤草』から図柄を借用している例を見出だすことができる。政信の絵本は元文5(1740)年刊で,宝暦に入る11年前,春信の作品が確認され始める宝暦10(1760)から数えると20年も前にすでに祐信の絵本から図柄を借用するという作画手段が江戸で存在していたことになる。祐信の『絵本常盤草』は享保15年刊で,約10年後祐信存命中にその図は江戸浮世絵に生かされていたのである。刊年は不明であるが,寛延〜宝暦頃の政信の『絵本美人顔之雛形三十二122-
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