えかさつく叢嘉し当世の奇翫となせり坊間年、此を梓にし漸牛に汗するにいたる予東武の繁栄にさくわんほうかんようやくみやびやかはんえい相』や『絵本江戸絵簾屏風』,また紅摺絵についても具体的に借用の指摘ができる。守国絵本からの図柄借用についても政信は早くから着手していたようである。例えば,上記絵本と同じ頃の政信の『絵本武者兵勇士要石』の油坊主の図は守国の『絵本故事談』(正徳四年)に,政信『絵本江戸絵簾屏風』の小督の局の図は守国『絵本写宝袋』(享保五年)に原図と思われる図を見出すことができる。一方政信以上に祐信の図柄を用いて紅摺絵や絵本に作画を行っていたのか豊信であったようだ。例えば春信も『牧童』という作品で図柄を借用している祐信の『絵本寝覚草』(党保四年)の一図を,豊信はそれに先んじて『絵本偶諺草』で用いている。暦二年刊のこの絵本でかなり手なれた祐信の図柄の使い方をしているように見受けられるか,この絵本の序文において「洛の西川氏が水萱の数、西都の風俗の閑麗なるをしていまた其風流を画ものなきことを恨みて工石川氏の筆を労し…(略)」とある。この序文は,この絵本の庸Il作時には,祐信の圃風が豊信に受け継がれていた,あるいはそのような作風が求められていたことを示す資料といえる。このように祐信・守国の絵本の図柄を借用することは,かなり早くより政信をはじめ春信に先行する人気浮世絵師たちによって行われ,宝暦頃から次世代の春信のデビュ一時にかけてはそれが常套化し,ありふれた作画方法になっていたと思われる。倍が祐信の絵本から図柄を借用していたことはこれまで特異な行為という感をもって語られることが多かったか,図柄を借用していたことは決して突飛なことではなかったのである。ただし借用の方法には春信と先行の浮世絵師の間で意識の違いが認められる。例えば政信と春信の図柄借用例を較べてみると,春信は,原典にかなりこだわりをもって図柄を用いて自らの世界を形成しようとしていることか多いのに対し,政信は図柄の借用を隠そうというほどではないが,祐信の図柄から自分なりの図柄を生み出そうとしているように思える。筆者はかつてこの春信の原典への執着に,江戸での祐信絵本の人気に支えられたパロディー的な遊び心を考察したか,この遊び心が政信の借用例に観察されることはなく,先行浮世絵師の中では農信の作品にわずかに見出されるだけであった。上方絵本からの図柄の借用は,宝暦・明和期をピークに一段落したと見ることができる。しかしながらが最初期から全作画期を通して祐信ら上方絵本からより後出の浮世絵師にもやはりこの手段は有効であった。安-123
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