くもの,後方に大きな車輪状の飾りをつけるものなど多種多様である。ただ,画絹の欠失によってそれぞれの持物はあまり明確に把握できず,両手で三弁火炎宝珠を捧持する,火舎をのせた丸い盆か皿のようなものを両手でもつ,右手は剣,左手に五輪塔かとみえるものをのせる,合掌する,右手に三又戟,左手不明,等が認められる。これら十体の形相については,『阿娑縛抄』ほか一部によるべき記述があるか,作例間でかなりバラつきがあり,ここでも諄名比定が可能なものが含まれようか,詳細はいまおく。最後に白象について付言しておくと,その頭には三化人や宝珠は揺かれない点でこれも通形を脱している。また牙にぬられた鈍いかがやきは銀泥とおもわれ,鼻にくわえる未敷蓮華や,持幡窟子の幡,あるいは剣身(十羅刹女)等にも散見される。全体には白色と朱の対比,朱の具の色調などが鮮やかで,整った体艦の表現をみせている。上記普賢の印相が珍しい点は,仁和寺本の普賢十羅刹女像に同種のものをみいだせる点注紅された。これも二替薩・ニ天部を描かない構成であるか,鶴林寺本のほうが全体として整理された感がつよい。四まとめにかえてそれでは以上のような現在一具として伝わっている三件の『法華経』関連絵圃のそれぞれについて,その制作時期をいつ頃と考えるか,ということになるが,現在確定的な判断を下しえる見地に達していない。全体としては十四世紀を下らないものと思えるのであるか,若干・ここで関連事情としてひろいだせるのは,それぞれ棟札等によって明らかとなる,応永4年(1397)本党,同13年行者堂,同14年鐘楼とつづく大造営の時期があったことで,これに先立つ正中3年(1326)には太子堂の修理も行なわれている。さらにば鶴林寺に二組のこる『法華経』版木の一組中に,応永12年の陰刻年記があり,十四世紀半ばから十五世紀はじめにかけて,同寺の寺運か隆盛をきたしたことかうかがわれる。ただし,これらが一具として伝えられた状況そのものの本質は,『法成寺塔供養文』にみえる釈迦堂の一連の作像にあるように,平安時代以降盛んとなった『法華経』信仰の所産を受けつぐ,天台系地方寺院における中世的展開の一端として理解できるものではないだろうか。もっとも,普賢十羅刹女像にかぎっては,当の鶴林寺・太子堂須弥坦西南柱に描かれたものが現存最古の遺例となっている点も改めて確認しておきたい。-129-
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