⑪ ルネサンス美術におけるピエタ図の研究研究者:明治学院大学非常勤講師塚本イタリア・ルネサンス美術に現れた祭坦画は,15世紀にさまざまな聖者を配した多翼祭壇画の形式が中世から引き続き数多く制作されるが,1470年代後半から次第に一枚の単独画のように画面が集約された,いわゆるパーラヘと推移していく。祭壇画を考察する場合,近代のタブロー画を見るような意識から各部分を断片化して捉えがちであるか,言うまでもなく祭坦画はひとつの巨大な分割できないゲシュタルトであり,各部分は全体のなかの機能を分担している。そのような中にあって「聖母子」図が常に安定した位置と表現形式を保持し,パーラ出現後も中軸に配され,次の16世紀へと引き継がれていくのに対し,チマーザにかれた「ピエタ」図は独特の生成と隆盛を見た後,一部に保守的な画家の作例を除いて,パーラの出現とともにその姿を次第に消していくのである。年代と地域を具体的に示せば,祭坦画のなかのピエタ図は,ムラーノ,ヴェネツィア,パドヴァ,フェラーラなどの北イタリアに数多く現れ,1440年から1480年頃に集中的に描かれ,その後衰退していったと言える。従ってこの主題の主たる展開は,クァトロチェント的様相の枠内で生起した。しかしながら,このピエタ図がルネサンス美術の祭駆画の網の目に組み込まれるまでの前史もまた興味深い面があり,若干の予備的考察を必要とする。ピエタは本来イタリア語の哀れみを意味し,キリストに対する哀悼を表す図全般に使われる言葉であるが,この図の源泉を遡ると単独の「死せるキリスト」図に行き当たる。東方世界ではビザンティン美術において,12世紀以降この単独の死せるキリストが半身像として現れてくる。しかし情動的要素の強いこの図は,散発的にビザンティン世界に存在するだけで隆盛を見ることはなかった。一方西欧世界では,イタリア半島においていわゆるグレゴリアン・ピエタとしての死せるキリスト図が13世紀末から登場し始める。そしてこの死せるキリスト図は,としてトリプティクおよびディプティクなどに組み入れられながら,その情動的表現を高めていった。やがてこの図は多翼祭壇画のプレデルラに定位置を見いだすことによって複合体のひとつの機能を担うパネルとして長い歴史の端緒についた。さて,この度鹿島美術財団の研究助成により可能となった研究旅行と文献収集によ博-131-
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