り,以下この問題において検討した課題と新しい展望について述べてみたい。祭堕画のなかに包摂された単独の「死せるキリスト」図の展開のなかで,もっとも留意すべき現象は,祭壇画の他の部分とりわけ両脇の聖者との関係である。すなわち,死せるキリストは衰悼の対象であるから周りの人物たちからパセティックな視線を強<浴びることになり,その結果周囲のパネルとの連携が緊密になる傾向が生まれた。この現象こそルネサンス美術の時代になって,自然主義的描写の進展のなかでこの図が隆盛してゆく潜在的要因であったと言える。図像の歴史の考察は,形態のEntwicklungの分析という前提なしには意味を持たないであろう。死せるキリスト図の晟開は,この図に内在していた哀悼という課題が15世紀の新しい形態感覚に出会い,宗教性を内蔵したまま人間感情をもっとも直裁に示した歴史でもあった。まず,単独の死せるキリスト図から複数人物のピエタ図への変容は,筆者がすでに論証したように(美術史研究18号)フィレンツェの彫刻家ドナテルロの「死せるキリストと天使たち」(1449年)すなわちエンジェル・ピエタの出現辺りを契機としてはじまる。勿論,ヴェネツィア美術圏にはビザンティン美術の影縛を受けたピエタ図が14世紀に存在しているが,ー画面のなかに複数人物を有機的に構成する構図はフィレンツェの新しい造形精神をもってはじめて可能になったと思われる。しかし,トスカーナではピエタ図が常にプレデルラに配されていたため,祭埴画全体のなかで決定的な役割を果たしていたわけではなかった。従ってドナテルロのエンジェル・ピエタがフィレンツェではなく,パドヴァで制作されたことは,死せるキリストをチマーザに頂く伝統があった北イタリア美術にとって重要な意味があったのである(美術史123号の拙論参照)。以後,北イタリアではスキアヴォーネ,クリヴェルリ,ジォヴァンニ・ベルリーニなどの祭駆画にピエタ図が多数現れ,1475年(聖年)頃その隆盛の頂点を迎えたのであった。筆者はこの展開の過程をこの度の助成による研究旅行で確認しながら,一方この課題をさらに発展させた新しい問題に逢着した。それはこの小論では十分に論じられないので別の詳論としてまとめられなければならないが,その概要は研究助成の成果としてここにその骨子を論述しておきたい。はじめに述べたように,「ピエタ」図は多拠祭壇画が合理的空間構成をもつパーラに移行するにしたがい,その位置を失ってゆき,マンテーニャやジォヴァンニ・ベルリ-132
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