鹿島美術研究 年報第9号
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ーニに見るような単独画へと姿を変え,16世紀には次第に衰微していった。私はその間の様相を細かく検討しているうちに,パーラの出現に前後して祭墨画のなかに「眠れる幼児キリスト」図が頻繁に現れる現象に注目した。すでに半世紀前にG.ファイアストーンによってこの眠れる幼児キリスト図はピエタ図のプレフィグレーションであることか論証されている。この眠れる幼児キリスト図は形式的には明らかに伝統的な聖母子を基礎とし,パーラの出現に合わせて,サクラ・コンヴェルサツィオーネの図像に組み入れられている。幼児は眠っているので画面が与える雰囲気はきわめて静謡で,ピエタ図に近い宗教性が感じられる。この図をもっとも多く描いたのは,ムラーノのヴィヴァリーニ一族で,アントニオからバルトロメオに移行する過程でその独剖的な構成が生まれている。ここでは具体的な作例を列挙する余裕はないか,ボローニャの多拠祭坦圃辺りから複合体の要になったように思われる。さて,このヴィヴァリーニの作品群の推移にピエタ図の展開を合わせて考察していくと,非常に興味深いことに,ピエタ図の減少に伴って眠れる幼児キリスト図が増大していく様子が観察される。この様相の変化について次のように解釈することかできるだろう。死せるキリスト図は元米カストリアの両而イコンにも見られるように聖母子図とペアを組んで表現されることが多く,イタリアの祭坦圃でもそのほとんどが中央パネルの聖母子と対応関係(両者は常に軸線上に置かれる)を結んでいた。両拠の聖者たちがサクラ・コンヴェルサツィオーネの進展に沿って中央の聖母子圃面に吸収されていくに従い,ピエタ図はその居場所を失うか,一方聖母子との伝統的連携はなんとか保持しなければならない。ここにおいてピエタ図は独立圃面を指向するほかに,聖母子図との融合・一体化を求められた。こうしてピエタ図はその姿を眠れる幼児キリストに変え,新しく生成されたパーラの主場面に生き残ったのである。つまり,眠れる幼児キリスト図には聖母子図とピエタ図のエッセンスが合成されており,しかもこの形態においてのみ,ピエタはその宗教的滋味を伝承できたと考えられる。祭坦画は多くの場合,水平庫川において連続空間に成長する傾向が顕著で,ピエタのある垂直軸は概して分離しやすく(ジォヴァンニ・ベルリーニのペーザロ祭坦圃が好例),ピエタは必然的に変容を追られた。こうして15世紀後半に現れた「眠れる幼児キリスト」図の内実を把握してから,ヴ-133

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