ースレーベン〉は,観者であるわれわれを大画面に包み込むことによって,ドイツが辿った歴史への想いに誘う。キーファーの風景画は圧倒的に大地を描いたものが多いが,その大地は人間不在の孤独な風景である。果てしなく続く大地を横切る細い川を描いた<天の川〉はその一例だが,フリードリヒのく大狩猟場〉(ドレースデンの市門の前に広がる草原とエルベ川の風景)にわれわれは共通項を指摘することができる。たとえば両作品は,中央の木立を頂点として大地や草原が広がっており,また,〈大狩猟場〉の帆船は,キーファーの作品では天の川上に吊り下げられた縦長のオブジェが対応している。以上のような構成上の類似点にもかかわらず,地平線の位置と色彩の根本的な相違を無視することはできない。フリードリヒはこの作品においても空と大地,彼岸と此岸の徹底した二元論の構図を取り入れている。したがって,空は大地を圧倒し,地平線は低い。また,実に美しい多様な色層で描かれているが,この美も「キリスト教的な死の象徴」(ヘルムート・ベルシュ=ズパン)として捉えるべきであろう。キーファーの地平線は極端に高く,また,色彩もモノクロームに近い。このような特徴はキーファーが19世紀ロマン派の宗教的な主観主義とは異なり,自然科学が決定的な勝利を収め,ニーチェのニヒリズムを経た今日,より現世に目を捉えざるをえない20世紀の画家であることを物語っている。大地を横ぎる川にはMilchstrasse(天の川)と書き込まれているが,天の川は遥か彼方のものではあっても超越的な彼ではない。たとえ彼岸を想わせるキーファーのく流出〉のような作品の場合でも神的はもののこの世界への降誕が描かれているが,主題はあくまでもこの世界であり,この世界に神的な意味を持たせることが問題である。キーファーの作品には,フリードリヒの作品の地上から天上への動きに対し,その逆の天上から地上への動きが感じられる。しかし,キーファーとフリードリヒの両作品がともに内面化された象徴的風景画として,世紀を越えて結びついていることに変わりはない。フリードリヒは民主的な政治への期待が裏切られた失望感をく希望号の難破〉などの作品で表し,ナショナリズムと深くかかわっている。同様に,キーファーの芸術活動の出発点は,ドイツ人としてのアイデンティティーの追求であった。彼はナチズムを含めた現実の歴史を主題とする作品を描くことによって,この模索を始めている。-136-
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