ついで文人画の先駆者として名高い柳澤洪園の知遇を得,十二歳の延享四年(174 7) 頃に長崎派の鶴亭に花鳥画を,翌年には洪園の紹介により池大雅に師事して山水を学んだと伝わる(『巽斎翁遣筆』)。現在までに確認される流蒻堂の最も初期作は,年記から宝暦七年(1757)二十二歳の作とわかる神戸市立博物館蔵「桃花図」である。本図は南禎派を最初に大坂に伝えたとされる鶴亭の濃彩花鳥画と作風を近似させ,鶴亭への爺殴堂の師事を首肯させる。本図款記にはすでに籠殿堂の書斎号を使用するが,「臨江逸人」の署名は珍しく,白文方印「字余曰世粛」は湛園の印章にある「字余日公美」に倣ったものかもしれない。ついで宝暦十二年(1762)二十七歳の「富嶽図」があり,明和六年(1769)三十四歳の「岩牡丹図」(『文人画粋編』),「蘭二鳥之図」(『遺墨遺品展覧会出品図録』)があるが,後者も鶴亭風を示す花鳥画である。一方,「岩牡丹図」と同じ明和六年の東京国立博物館所蔵『明和南宗帖』所収「山水図」は,舶載された明清画を写したと想像される細密な点苔を重ねた著彩画で,丹念な作業に兼酸堂の生真面目な制作態度がうかがえる。翌明和七年,大坂龍泉寺での書画会に大雅か出品した「竹巖新賽図」の自賛は,籠薮堂が書画会開催にあたって濱淡による大雅の「春雲出袖図」を粗白として好まず,傭設濃妍,営置精巧な作品の制作を要求したことを伝える。『明和南宗帖』の緻密な作風は,大雅賛文の内容に伝わる当時の兼酸堂の絵画観や美意識を反映したものであろう。文人画家である籠段堂が,初期に濃彩花鳥画を好み,濱淡による南宗山水よりも濃密な著色山水を志向したことは興味深い。これと関連して触れたいのが,年記がなくこれまで初期作とされてきた「箕面瀑布図」「飛瀑聾雲図」である。両図とも『明和南宗帖』の著色山水とは異なり,墨画で箕面の滝を描き,大雅や大雅画風を大坂に伝えた福原五岳の水墨作品を想起させるもので,晩年の熟した感じがないことから早い時期の作品とされているが,筆者は,後年の作品に通じる幾何学的な画面構成や,懸崖を描く肥痩のある筆線が岡田米山人(1744■1820)の「蘭亭曲水図」(寛政十一年),「松下高士図」(同十二年)に多少,似ている点で,その年代推定についてさらに再考の余地を残すものと考えたい。蒲殴堂四十代の作品には,四十歳の安永四年(1775)の細合半斎着賛「山水図」(『遺墨遺品展覧会出品図録』)があり,四十六歳の天明元年(1781)には,海量の著作『ひとよはな』に「博多勝景」の挿絵を与えた。簾韮堂は物産学的関心から地図・地誌を-140-
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