鹿島美術研究 年報第9号
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(1764)二十九歳の年にも,朝鮮通信使と親しく筆談唱酬して『東華名公印譜』(大阪起させる図様には,処罰以降,餡晦•隠棲へ寄せる爺殿堂の気持の高まりか感じられ蒐集したが,海に開けた博多の景観を俯眼して描いた本図は幾何学的な山の形態や点の打ち方に薬蔽堂らしさが認められる。また,同じ天明元年と推定されている「誰段堂宛大典書簡」(大阪女子大学付属図書館蔵)には,朝鮮修文職にあった大典顕常に兼薮堂が朝鮮画の入手を依頼し,大典がそれを約したことが記される。兼蔽堂が朝鮮画を入手しえたかは不明だが,明和元年府立図書館蔵)を贈るなど籠蔽党と朝鮮との関係は深い。蒲殴堂と親交の深い米山人にも朝鮮面の影靱が示唆されるので,薬段堂作品と朝鮮画の関係についても新賽料の発掘を含め検討していきたい。なお,筆者は遜斎,巽斎,木孔恭など落款印章の変遷による作品の年代推定の可能性を検討したが,『巽斎損因』に収められる白文方印「臣孔恭」については臣を自称することから,酒石高超過で聞せられた兼殿常か,党政二年(1790)から五年(1793)まで長島藩主増山雪斎(1754■1819)の庇護下,伊勢に滞在した時期に使用したものと推定したい。「臣孔恭」印を捺す作例に「筋枝小禽図」かあるが,同じ写生体花烏画でも初期の鶴;'芥風とは異なり宋紫石系に近い画風を示している。認政九年(1797)の個人蔵「小禽図」も「励枝小禽図」に似ており,南禎系花島画をよくした雪斎と兼段堂の相互の影評関係も考えたい。五十八歳の党政五年には伊勢より大坂に戻った直後に松田元禎に与えた東京都立図書館蔵の山水圃手本がある。真筆と断定するには充分な検証が必要だか,山の形態・緞法などか派段堂の特色に通じる。帰坂後の兼段堂は,市中の狭陰な住所の生活を余儀なくされたが,党政八年,大坂を訪れた谷文馳は籠段堂の理想とする居宅・書斎のイメージを「流段堂意園図」(『遺墨遣品展覧会出品図録』)にあらわした。現在の所在は不明だが,中国文人の邸宅を想る。画技の円熟とともに晩年の心境を反映してか,六十代に兼蒻堂は特色ある山水画を描いている。中井竹山の賛から党政九年秋日,派殴堂六十二歳の作とわかる個人蔵「独釣図」は,峰が両側に追った深い深谷に孤舟を浮かべ釣糸を垂れる高士を揺く。山容に墨を掃いて全体の印象は重厚であるが,大観的な構図に幾何学的な形態の樹木を配し理知的に画面構成している。ついで六十四歳の党政十一年冬日,中で猫かれた大阪市立美術館所蔵「山水141-

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