鹿島美術研究 年報第9号
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図」は,印譜との照合から印章に再考すべき点があるが,前述「独釣図」と画風,筆致を近似させ,兼殿堂の基準作品であることを再確認した。簡略化された樹木などのモチーフが理知的に画面構成され,大雅の青緑山水に倣ったカラフルな点苔表現に特色がみられる。本図には洋風表現も指摘されているが,派薮堂は銅版画に興味を示したり(『江漢西遊日記』),『甜薮堂魚譜』『貝譜』などの写生帳や,兼酸堂模写とされる「和蘭新定地球図」(大阪府立中之島図書館蔵)を残すので,博物学的実証精神に基づく写実への関心も高かったのであろう。その他,年代のわかる晩年の作品に「墨蘭図」(寛政十一年),「墨梅図」(同十二年),「竹石図」(享和元年)が残される。籠段堂は好んで四君子を抽いたが,最晩年のこれら諸作品は安定した構図に筆線の冴えを増して端麗である。以上,爺酸堂作品と推定される作品を年代順に追った。「其の意蓋し自娯にあり」(『山中人饒舌』)といわれるように,兼韮堂は職業絵師のような巧緻な技巧を誇らず余技として絵筆を揮い,几帳面で謹直な画風に,新しい明清画に学んだ清新さと商家の主人らしい鷹揚でまったりとした雰囲気を漂わせている。作品の形式は掛幅,画冊が主で,屏風襖絵など大画面はみられなかった。その画風展開は,初期においては長崎派系の濃彩花烏画や濃密な山水画を猫いたが,伊勢から帰坂して画風を深化させ,「独釣図」や大阪市美蔵「山水図」など湘蔵堂晩年の理想を描いたと思われる山水画のうちに,簡略化された形態による理知的な画面構成と独自の色彩表現を誇るユニークな画風を確立した。併せて墨画による四君子も得意とし,晩年に洗練を加えている。筆者は,以上の画風展開のなかで特に晩年の山水画に米山人にも通じる新感覚派ともいえる大坂文人画独自の世界を見出したい。米山人は安永四年(1775)頃にはその画事が知られていたらしいが,現在わかる米山人の早い作品は寛政四年(1792)四十九歳の「岩石図」であり,兼穀堂没後の文化・文政年間にその創作活動を活発化させている。兼蔑堂には米山人の奇抜な画面構成と生活感溢れる強い筆力はみられないにしても,晩年のユニークな山水画風において年代的にも米山人へ架橋するものと位置づけられるように思われる。最後に筆者は大坂文人画の社会的背景に関する問題として,安永四年版『浪華郷友録』に兼蔽堂が「聞人」と記載されることに注目したい。『浪華郷友録』の凡例は,職・身分は異なっても公余に芸苑に濫ぶ知識人すべてを,儒者,文士,医者,僧侶などの職業的知識人と区別して「聞人」と定義する。「聞人」は先に刊行された『平安人142--

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