鹿島美術研究 年報第9号
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その名が知られる理由は,詭訴によって蛮社の獄(天保10年—1839)に遭遇し自刃とい渡辺畢山(1793-1841)は,江戸時代の南画家として知られる一方,三河•田原藩の⑭ 渡辺華山における作画と思想研究者:常葉学園短期大学美術・デザイン科助教授日比野秀男家老として藩政改革に活躍した人物としても知られている。しかしながら私達に最もう悲劇的な死を迎えた人物であったからである。彼の芸術と思想については,これまで先学によって研究が進められてきたが,思想と芸術がどのように関わってきたのか,あるいは蟄居(天保11年1月)後の作画に彼の開明思想がどのように反映されているかについては必らずしも充分に解明されているわけではない。このような点から本研究にあっては,彼の芸術がどのような生涯の中で生まれ変遷していったかについて詳細に検討を加える第一段階として,彼のぼう大な手記を整理することから始めた。以下,調査できた彼の手記のリストを以下に掲げ,主要なものを略説することとしたい。1.文化年間の手記①縮図2冊(第1冊36紙,第2冊32紙)文化7年(1810)紙本墨画淡彩(第1冊)24.0 x 17. 0cm (第2冊)24.0 x 17. 0cm 崩山が過眼した作品の縮図。一部にはトンボ・ノミなどの写生図も含まれるが狩野派,琳派の縮図が大半である。② 寓画堂日記1冊(21紙)文化12年(1815)紙本墨書内容は文化12年の日記。起床,就寝,藩務,学画,来客,訪問先などが記されている。③ 皐山先生漫録2冊(各本文26紙)文化13年(1816)紙本墨画文化13年元旦より12月28日に至る日記。内容は「②寓画堂日記」(文化12年)とほぼ近い。中国明・清画をよく模写している点に注目される。144-

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