鹿島美術研究 年報第9号
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⑮ 京都画壇近代化に関する研究ー一楳嶺と栖鳳の比較を通して一一2.楳嶺と栖}りしの手本圃について開校)以来の運筆手本1441枚と連筆手本集(・llIJ•子)5 iHJ・について調査を行った。調査研究者:京都市美術館学芸員廣田1.楳嶺と栖鳳の絵面思想について幸野楳嶺は中島米章,塩川文麟について絵画を学んだが,楳嶺の絵画思想は「面学綱領」に表われている。画学綱領は謝赫の六法,劉道醇の六要六長,郭若虚の用筆三病,饒自然の十二忌に楳嶺自身の十格から成る。六法,六要,六長,三病,十二忌は各々の画論か出典であるか「芥子園画仙」において集成されたものである。従って楳嶺は芥子図画俯に中国の伝統的画論の論拠を求め,さらに十格を加えたのである。ところで十格の内容は対比有序,明晦適度,濱淡相迪,排色鮮淡,五彩調和,形状要新などで,新しい写実主義の感党をうかがわせるものであるか,実際の楳傾の作品においては伝統的な表現に終始しているように思われる。また楳嶺の思想が主として芥子図圃他に依拠している点は後述する手本圃においても顕著に認められよう。竹内栖鳳はどうであろうか。竹内栖鳳は楳嶺塾で学んでいる。芥子図圃他に注目していうならば,栖鳳は修学時代に芥子図画仙を自己のノートに筆写している。このノートは「竹内棲鳳(楳嶺からもらった雅号で後に栖}Xiいと改号)」の署名入りの「雑録」(京都市美術館蔵)で,この中には芥子[計画俯.「圃学浅説論圃十八則」からまさしく楳嶺の圃学綱領に対応する部分を筆写している。他に写しているのは分宗,用筆,用墨に限られ,栖鳳は謡図的に楳嶺の絵圃理念を芥子園画縛から直接学習していることがわかる。楳嶺の没後,栖鳳は楳嶺の代替として京都市立美術工芸学校(京都府画学校・校名変更)の教貝となり,また同絵圃専門学校の創立者になった。栖鳳は自己の絵圃理念として骰底した「写生」と「省筆」を打ち出しているが芥子図圃侶にもとづく伝統的な描法にふれることはなかった。従って栖}瓜の修学時代にあっては楳嶺から「骨法用筆」「伝模移写」のスタイルを受け継ぎながら,画家として成長してゆく過程において「写生」に転換していったことを示している。京都市立芸術大学が校歴査料として保管している京都府画学校(明治13年7月1日方法は全点の原寸大コピーをとリ,サイズ,彩色の有無,校印の種別(校名変更が多孝149-

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