くだん12日付)の中で「(前略)先年ヨリ私舎二於テ生徒ヲ教育スルニ予カジメ規則ヲ設ク(後5冊あり,全部同一布地の装丁で同一時期に制作されたものであると推定される。またうち1冊には「北宗教場」の印章をもつことから画学校の初期(明治13■14年)と思われ,学制改革のあった明治21年2月以前であることは確実である。さて楳嶺私塾手本集と画学校のそれを比較検討したところ,添付資料(1),(2), (3)でみられるように2種はまったく同一であった。次に検討すべき問題は私塾手本と面学校手本のいずれが先行するものか,ということである。この点については「北宗教則草稿成ルニ際シテノ楳嶺上言書」(明13年7月略)」と述べていることから私塾手本が先行するものと考えられる。従来,私塾の運筆手本類は看過されて1iJf究の対象とならなかったか,今回の比較研究によって次のことか初めて明らかとなった。楳嶺という,画学校創立者とはいえ特定の私塾の教育体系が公の教育体系にもちこまれていたこと,様相も一部ではあるが明らかになったこと,である。今回実見できた3冊の他,楳嶺私塾手本集かすべて揃えられたならば,楳嶺と画学校の関係はもっと明確になるものと思われる。私塗,圃学校の両手本類は各々別個に存在しつづけていたのが今回の比較研究によって新しい怠味合いを幣びてきたことになろう。さて次に栖},[}しの手本についてである。栖鳳は18歳で楳嶺の圃塾に入門し,イ牛の教育をうけた。また楳嶺手本と同じ図柄の手本が栖鳳の弟子になる画家の賓料内にみられることから栖鳳も楳嶺の手本教育を伝承していることは明らかである。しかし栖鳳の世代の画家達は芥子園画他を規範とする手本画を制作せず,新しい手本画を制作している。次にこれらの手本画を検討してみたい。これらは竹内栖鳳をはじめ総員9名による120点で,台帳記録によると明治35の創作のようである。しかも動態の馬を描くことは今までなかったことであろう。描法は墨の濃淡,破墨演墨などによって馬の筋肉表現,疾駆する印象をうまく表現している。新世代の手本は写生をもとにしながら,単なる運筆の手本にとどまらないものであることが認められよう。栖鳳らが学校用に新しく手本を制作した理由を考察するならば芥子園画俯を規範と年10月から明治42年4月に制作されたものである。一例として栖鳳の「走馬図」(明37年5月)を挙げてみると画学校の手本のような原画の存在は考えられない,まった<-151-
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