鹿島美術研究 年報第9号
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35■43年)以前であるから,概ね明治35年までにおこったものと考えられる。この変3. まとめする描法(=楳嶺)から写生を基礎にした表現(=栖鳳)への変化に対応して古い手本の利用価値がなくなったからであろう。するとこの変化は栖鳳らの手本制作時期(明化は京都画壇近代化の時期を明確に限定したことを意味する。今回の調査研究の中で,楳嶺私塾の手本集を3冊ではあるが実際にみることができたために楳嶺の新しいイメージが出てきた。画学校開校に至る準備段階で楳嶺は設立建議書提出,北宗規則並ぴにカリキュラム作成等,中心的役割をはたした。そして開校後,楳嶺は北宗担当教員ながら思想的にも南画系の芥子園画偲を取りこんでいるし,芥子園画備を下敷にし,円山派を〈みこんだ手本を作成している。画学校との関係では開校後1年してすぐに離任。7年後の明治21年3月には教頭心得として再ぴ着任している。この時,画学校は四宗制をやめ(明治21年2月)普通画学科,専門画学科制に学制をかえている。従って楳嶺は四宗制に固執するのではな〈,反対に「日本画」という新しい絵画への道を開拓した人物なのではないだろうか。京都画痘の近代化は楳嶺によって用意され,楳嶺画塾の栖鳳によって一挙に推進された,という解釈を提出して小論のまとめとしたい。添付資料:運筆手本写真2枚手本比較表3枚-152-

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