鹿島美術研究 年報第9号
178/428

⑯ 復古主義と宋風摂取ー一興福寺と東大寺の鎌倉復興造像を中心に一一研究者:大阪市立美術館学芸員藤岡鎌倉時代の彫刻様式の形成については,従来より次のことが指摘されている。第一には,興福寺に本拠をおいた奈良仏師が中心的な役割を果たしたこと,第二には,奈良時代から平安時代初期にかけての伝統への回帰(=「復古主義」),新渡の宋代美術の受容(=「宋風摂取」)か契機となったとみられることである。鎌倉新様式の形成のこうした図式は,再三にわたって指摘されている。しかし,なぜ奈良仏師が新様式形成の主役となりえたのか,なぜ「復古主義」や「宋風摂取」といった動向が生じたのかといった問題は必ずしも明らかではなく,また「復古主義」「宋風摂取」の具体的な中身についてもまだまだ検討されるべき点があると思われる。さて,本研究の目的は,彫刻における鎌倉新様式の形成の最大の舞台となった興福と東大寺の復興造像について,上記の問題意識に基づき,検討を加えることにあった。大きなテーマであり,これまでの研究において両寺の復興造像の全体を検討することは叶わなかったが,本報告では,現時点において具体的な研究成果を得ることができた興福寺東金堂の復興造像に関する問題を中心に,これまでの研究経過を略述することとしたい。1.興福寺東金堂の復興の経緯養和2(1182). 7 元暦2(1185). 6 文治2(1186). 3 文治3(1187). 3 建久7(1196). 7 建仁1(1201). 12 建仁2(1202). 3 建永2(1207). 以上の経緯を分析すると,次のような解釈が可能である。まず,文治2年における奈良仏師成朝と京都仏師院実との造仏の競望については,仏師の登用がしばしば造仏東金堂上棟寺家から藤原氏等に造仏の協力要請,堂宇の造営はすでに完了成朝と院実が東金堂の造仏を競望興福寺衆徒,山田寺薬師三諄を奪取し,東金堂本諄に据える維摩造立(仏師定慶),この頃文殊も造立帝釈天造立(仏師定慶)梵天造立(仏師定慶),この頃四天王造立(現在の南円堂像,仏師定慶か)この頃に漸次に十二神将造立穣156-

元のページ  ../index.html#178

このブックを見る