鹿島美術研究 年報第9号
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2.東金堂復興像の図様の特殊性の施主の意向によって左右されることから,前年における寺家から藤原氏等への造仏の協力要請に関係する可能性が高い。しかし,そうした競望も,衆徒による本尊の山田寺からの奪取によって意味を失った。その後,建久7年からは本尊を囲む脇仏が漸次に造立されるようになる。そして,これら脇仏の造立には興福寺僧とみられる仏師定慶か中心的な役割を果たした。これらの造仏については,いずれも寺院大衆の寄進や勧進によることが注目される。これまでの興福寺における造像では,氏長者・公家を施主として,堂宇ごとに大仏師をたて,諸諄の造立・開眼供養を遂げる方式がとられていたが,東金堂の脇仏の復興造像を境として,大衆の寄進や勧進により,諄像ごとに個別的な造像か展開されるようになる。端的にいえば,摂関家の氏寺としての官寺的な造像方式を脱皮し,寺家を中心とした造像方式へと変化してくのである。そして,こうした造像方式の変化は,古代寺院的性格から中世寺院的性格へと変貌を遂げる興福寺そのものの変化に対応したものと考えられる。東金堂の鎌倉復興の諸像は,生々しいまでの写実性に定慶の手腕かいかんなく発揮されるとともに,異彩を放つ各像の図様が注目される。く維摩・文殊〉獅子や牡丹を配した台座の形式・滋匠に宋風が指摘されている。また,維摩の姿は平安初期の法華寺像に範をとった可能性があるが,衣桁形の後屏は当期以降に制作されるようになった十王図などにみられるのと同種で,新渡の図様を採り入れたものと考えられよう。着甲の文殊は,胸甲の形式に宋代図様との関連が具体的に指摘でき,宋代図様を採用した可能性が高い。なお,文殊の頭頂にあらわされた冠は,京都・来迎院三宝荒神像の冠が類例としてあげられるか,これの所依については不明である。〈梵天・帝釈天〉梵釈二像については,かつて林温氏か,浄瑠璃寺吉祥天厨子扉絵についての考察のなかで,同扉絵や湘住山寺五重塔扉絵,東博本釈迦十六善神像に拙かれた梵釈との図様上の近似,さらに浄璃瑠寺本をはじめとするこれらの図様が宋代の図様をもとにしたものであることを指摘されている。く四天王〉現在東金堂に安置されている平安初期の四天王像の伝来は不明で,いつの時期にか他より移安されたものと考えられる。一方,現在の南円堂四天王像が鎌倉初期に再興された本来の東金堂四天王とみられるが,この南円堂像については,各像の形制,律や大袖をつけない服制に天平時代の古典形式を大胆に採用していることが注157-

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