3.東金堂の復興造像と解脱房貞慶目される。また,甲や装身具の意匠には,古典形式とともに,宋代図様に拠ったとみられる新趣の形式がみられる。く十二神将〉各像の形制については興福寺伝来の図像という『覚禅抄』所収の「世流布像」と一致する点が多いことが指摘されており,伝統的な図様を基本としているとみられる。一方,甲の意匠には南円堂四天王像との類似が認められ,細部形式には少なからず新渡の図様を採用しているとみられる。すなわち,新旧の図様を融合した可能性がもたれる。このように,東金堂の復興諸像の全体を見渡すと,各尊像が個別かつ漸次に造立されたにもかかわらず,図様に関しては全体として古典研究と宋風摂取がきわだち,しかもそれらの混在した様相が認められ,図様形成の一貰した態度がうかがわれる。さて,これら東金堂諸像の図様は,鎌倉時代の遺品のなかでも確かに異彩を放っている。しかし,鎌倉初期の遺品には,これらと類似するものもいくつか散見される。浄瑠璃寺,海住山寺など,鎌倉初期における南都仏教復興の旗手として名高い解脱房貞慶の関係した諸寺に伝来した遺品がそれである。まず,梵釈二像については,林氏が指摘された通りである。また,四天王は海住山寺五重塔伝来とみられる四天王像とその甲の意匠が類似しており,十二神将についても浄瑠璃寺旧蔵の十二神将像とその形勢が一致する点が多い。林氏は,浄瑠璃寺旧蔵の梵釈について,像そのものは宋代の図様を援用しているものの,背景に樹木を配するなど奈良時代の伝統も保持されており,守旧性と宋代図様摂取の両面がみられることが特徴であるとされた。東金堂諸像と貞慶関係諸寺の遺品は,尊像の図様ないし細部形式だけでなく,古典研究と宋風摂取の両面をそなえた図様形成の基本的な態度に共通性のあることが注目される。東金堂復興像の図様の特殊性については上記のとおりである。それでは,こうした図様の形成は仏師定慶の存在に帰着するのであろうか。本研究では,仏師定慶ではなく,解脱房貞慶という一人のプロモーターの存在を想定した。貞慶と宋代美術とのつながりについては,彼が重源と深い関わりをもっていたことが注目される。重源は,貞慶が隠遁した笠置寺へ宋版一切経・梵鐘を寄進しており(『南無阿弥陀仏作善集』),貞慶が勧進造営したと伝える(『三輪上人行状』『興福寺六方衆徒申状』)興福寺五重塔の心木も施入している(『南無阿弥陀仏作善集』)。一方,貞慶は重源が建立した浄土寺落慶の供養導師をつとめる(『浄土寺縁起』)など,たびたび-158-
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