重源の要請にこたえている。また,貞慶と古典研究との接点は,南都仏教の伝統の復興につとめた貞慶の思想と行動そのものに求めることができるであろう。貞慶については,すでに諸方面において,彼が興福寺の復興に深く関わっていたことが指摘されている。その論旨の中心は,彼の北円堂造営の勧進であったが,そうした貞慶と興福寺復興との関係を前提にすれば,貞慶が東金堂造像をプロモートしたという想定もあながち不当ではないだろう。安田次郎氏は,中世史研究の立場から,北円堂や五重塔に加え,東・西金堂の復興についても,これら寺家沙汰による復興が貞慶の推進によるものであることを推測されているが,東金堂の造像に関するかぎり,そうした推測を逆に美術史の側から衷付けているともいえよう。本研究を進めるなかで,興福寺東金堂の復興造像について,およそ以上のような研究成果が得られた。とりわけ,東金堂造像が鎌倉初期の南都仏教界における旗手,解脱房貞慶によって企図されたものであることが推測されたことは,「復古主義」や「宋風摂取」を契機とした鎌倉彫刻様式の成立に関して,南都仏教界の存在という新たな視点を用意するものと思われる。東金堂の復興造像の検討ではあくまで図様の問題が中心であり,技法や造形のより本質的な部分については検討が及ばなかった。しかし,仏師達の「復古主義」や「宋風摂取」への取り組みか,仮に貞慶に代表される南都仏教界からの要請によるものであったとすれば,受容から創造へという彼らのイメージの形成過程において,様々な感化があったであろう。そうした「復古主義」や「宋風摂取」のより具体的な内容,また奈良仏師ひいては鎌倉新様式の成立と南都仏教界の存在とのより広範な関わりについては,引続き今後の課題としていきたい。-159
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