⑱ 宗教改革期のニュルンベルク美術_ファイト・シュトスの『バンベルク祭壇』をめう1525年には,カトリック側と改革派とによる宗教討論会を開催したのち,福音主義た1520年から1523年は,まさしくこの都市において宗教改革が着々と進行しつつあっぐって_研究者:山形大学教養部助教授元木幸一申請書「研究スケジュール」に記したように,平成4年3月にミュンヘン,クラクフ,ニュルンベルク,バンベルク等を訪問し,予定通り『バンベルク祭痘』,その下絵素描等を調査し,文献資料を収集することができた。ただし,本報告書では,調査旅行からまだ日が浅いため,研究成果の概要を記すことで御寛恕願いたい。『バンベルク祭坦』は,現在バンベルク大聖堂に設置されているが,元来はニュルンベルク,カルメル会修道院付属教会堂の主祭壇として制作された木彫祭駆である(同修道院は現存せず)。契約書が現存しており,それによれば,契約は1520年7月13日に,彫刻家ファイト・シュトスと彼の長子アンドレアス・シュトスを修道院長とする同修道院との間で成立している。契約による制作期間は三年で,異論もあるが,おそら〈は契約通りに,したがって1523年に完成し,設置されたものと思われる。この作品はひじょうに多様な問題を含んでおり,中世末期ドイツ美術に関する諸問題のいわば「百貨店」のような存在なのだが,本研究ではおもに,本作品が制作された時期のニュルンベルクと依頼主たるカルメル会修道院の諸状況を勘案しながら,作品の意味をめぐる問題に焦点を当てたい。周知のように1517年にマルティン・ルターが宗教改革の口火を切ったのち,ヴィッテンベルクとも深い繋がりをもっていたニュルンベルクでは,W.ピルクハイマーなど,都市貴族を初めとする市民たちの一部が,いち早くこの新しい宗教運動を吸収し始めた。すでに1517年には,ルターの友人ヨーハン・フォン・シュタウピッツがニュルンベルクを訪れ,その説教は多くの市民を集めたことが知られている。そして,とうとの都市たることを決定するのである。したがって『バンベルク祭壇』が制作されていた時期にあたる。そしてこの祭坦の注文主アンドレアス・シュトスは,宗教改革の動きに対立するカトリック側の中心人物だったと推定されるのである。なぜなら,1525年の討論会終了直後に,市参事会から改革を妨害する邪魔者として追放令を受けたのは,カトリック側の中でアンドレアス・シュトスただ一人だったからである。ポーラ164-
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