鹿島美術研究 年報第9号
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ンドの美術史家z.ケンピンスキーは,この祭壇がこのような宗教状況の下で制作されたカトリック・イデオロギーの表現であると解釈した(1969年)。つまり,『バンベルク祭坦』を,修道院長にして作者の息子たるアンドレアス・シュトスの宗教的立場を直裁的に表明した作品とするのである。ケンピンスキーはそれを『バンベルク祭坦』の図像プログラムに読み取ろうとする。この祭壇はマリア伝をテーマとするか,まずこのテーマ自体か,宗教改革の状況の中ではきわめて意図的なものであるというのである。ルターは,マリアに対するキリストの母としての尊敬には反対ではなかったか,マリアによる人類救済への神秘的関与に関しては断固として拒絶した。したがってルターは,マリア崇拝,マリア祭殿には否定的だった。このようなルター説か流布している時期に,ことさらマリアの生涯を表現する大規模祭駁を制作することは,明らかに反ルター主義の表明という怠味をもつものであり,さらにいえばプロパガンダですらあるというのである。このケンピンス共一説に対し大方のドイツ人研究者は否定的な立場をとった。その主要な反論は以下のようなものである。まず第一に本来修道士たちのためであるべき修道院付属教会堂の内陣祭坦にこのようなプロバガンダ的な機能を担わせることはありえないのではないかという疑問(G.ブロイテイガム),第二にこの祭坦の図像にはプロパガンダといいうるような尖鋭的な傾向はまったく見られないというもの(R.ハウスヘル),第三に一般的な反ルター主義的表明というよりもカルメル会の教義によって説明すべきではないかというもの(R.ズッカーレ)である。それに対し本研究は,ケンピンスキー説を全面的に否定するのではなく,これを手掛かりとして,より綿密な仮説を構築しようとするものである。そのためには,まず上記した反論・疑問に対する筆者の立場をはっきりさせておく必要があるだろう。第一の修道院付属教会堂・内陣祭坦の機能の問題だが,これについてはK.ウルリヒの研究か参考になる。それは,筆者の知る限り,ニュルンベルク,カルメル会修道院の歴史に関する唯一の論文である。ウルリヒによれば,ニュルンベルクには四大托鉢修道会のすべてが修道院を構えていたか,カルメル会修道院は,ペグニッツ南岸で都市のはずれの職人居住地に位置していた。それゆえ,都市質族などの裕福な階屈とはあまり縁がなく,おもに普通レヴェルの市民,職人階級,そして近隣の民の司牧を行っていた。また,修道院教会とはいえ,特に貢献のあった俗人は内陣に葬られたことが知られている。さらに,個人に寄進されたミサが付属教会で催されたことも知られ-165

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