鹿島美術研究 年報第9号
191/428

の物語的降誕図から,受難への暗喩を含む降誕図への変更を示す。さらに受難の含意は,人類救済史を示唆するものである。マリアの生涯を連続的に表現するマリア祭駁において救済史を意味する方向へ変更がなされたことは,救済史におけるマリアの関与を強調することでもある。つまりこの変更は,ルターが断固否定した方向へなされたということになる。第二に左端のヨセフに注目したい。素描ではヨセフは牡牛に飼葉桶を差し出している。それに対し完成作では外へ向かって出て行こうとしているように見える。これはスウェーデンの神秘主義者,聖ビルイッタの『降誕に関する啓示』の「(ヨセフは)それ(ローソク)をしっかり壁に結び付けられますと,また出て行かれました」という記述に対応するものと思われる。こうしたマリアに関する神秘主義は,カルメル会の基本的傾向であるとともに,やはリルターが忌み嫌ったものでもあった。このように,この二点を見ただけでも,下絵から完成作への変更がカルメル会の教義の強調と反ルター主義的傾向に基づいているといえるのではないかと思う。では,この反ルター主義的傾向は,ケンピンスキーの主張するような,単に一般的な宗教改革的潮流で説明するだけで十分なのだろうか。筆者はここにもニュルンベルク,カルメル会修道院内部の事情が関与しているのではないかと推察する。この『バンベルク祭坦』が依頼された1520年,ニュルンベルクの二大教会である聖ゼーバルト教会と聖ローレンツ教会の主任司祭のポストはルター主義者に占められた。ニュルンベルクにおいてルター主義が大きな力を持ち始めたことを示すだろう。そのような風潮は,修道院の壁をもってしても,食い止めることができなかったようだ。おそらくファイト・シュトスが契約通りに祭坦を完成した1523年7月,四人の修道士がこの修道院を去り,アンドレアス・シュトスによって除名された。四人の中心人物はヨーハン・ヴァルターといい,二十年間もカルメル修道院とアウグスティヌス隠修士会で聴罪司祭を務めてきた人物であった。ヴァルターは,除名後ただちに結婚したことから分かるように,ルター主義への協調者であったように思われる。このような修道院内部でのルター主義への傾斜は,例えばアウクスブルクでは,もっと極端な形で現れている。アウクスプルクのカルメル修道院では,修道院長自身がルターを支持し始める。ついに1523年になって修道会管区長からの腎告を受け,修道院長は職を辞し,福音主義の研究に身を捧げることを決意するに至っている。この年が,ニュルンベルクで除名者か出たのと同じ1523年であることが注目される。カルメル会高ドイツ管区は,や169-

元のページ  ../index.html#191

このブックを見る