鹿島美術研究 年報第9号
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っとこの年になって,重い腰を上げ,綱紀粛正の方向を決断したのかもしれない。アンドレアスがニュルンベルクの修道院長に就任した最初の二,三年は,このようにカルメル会内部へも宗教改革の嵐が吹き込み始めた時期であった。そして,それは『バンベルク祭燈』の制作時期とぴったり重なり合うのである。したがって『バンベルク祭填』の反ルター主義的図像は,一般的な宗教改革への対抗を意図しているというよりは,まさしくアンドレアス・シュトスがニュルンベルクのカルメル修道院長として修道院内部を統括するために必要なものだったといえるだろう。つまり,この祭壇の意味は,ケンピンスキーの述べるようなカトリック・イデオロギーの主張に留まらず,アンドレアス・シュトスにとっては,自らに委ねられた修道院の運営に関わる問題の具体的な解決手段の一つでもあったのである。そのためにも彼は,制作を父のファイト・シュトスに依頼しなければならなかった。宗教史上,そして政治史上もヨーロッパ全体を巻き込んで行く宗教改革という大きな事件,しかしそれは中世の出口に生きた人々にとっては自らの事件にほかならなかった。ニュルンベルクという一都市の修道院長とその父である彫刻家が生み出した一つの木彫作品の裏に,宗教改革という新しい動きに抗した人間の懸命な歩みが隠されている。本研究において,筆者はその歩みを可能な限り具体的に解明しようと試みた。《本文中に引用した参考文献》• Z. K e; pifiski, Wit Stwosz w starciu ideologii religijnych Odrodzenia Oltarz • G. Brautigam, "Ehem. Hochaltar aus der Karmeliterkirche zu Ntirnberg, • R. Haussherr, "Der Bamberger Altar," in Veit Sto/3. Die Vortriige des Niirnber-• R. Suckale, "Das ehemalige Hochaltarretabel der Nurnberger Karmelitenkir-• K. Ulrich, "Das ehemalige Karmelitenkloster zu Nilrnberg," in Mitteilungen des Salwatora, Wroe舟aw-Warszawa-Krak6w,1969. 1520-1523," in Veit Sto/3切Niirnberg,Milnchen, 1983, pp. 333-350. ger Synzposions, Milnchen, 1985, pp. 207-228. che und sein altkirchliches Programm," in Veit Sto/3. Die Vort成'gedes Niirnberger Symposions, Milnchen, 1985, pp. 229-244. Vereins /iir Geschichte der Stadt Niirnberg, Bd. 66, 1979, pp. 1-110. 170-

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