⑲ 木村探元の作品研究30歳代終りまでの作画活動前期,そして40歳代から50歳代後半までの作画活動中期,研究者:鹿児島市立美術館江戸時代中頃,鹿児島を中心に活躍した木村探元は,89歳の生涯に数多くの作品を残している。探元及びその弟子達の主要な作品は昭和62年10月,鹿児島市立美術館で開催された「木村探元展ー近世薩摩画製の隆盛ー」に展示し,その出品作品は同展図録に掲載されている。本調査研究では,その時の成果をもとに,更に新たな作品を調査することによって,探元の作風展開をできるだけ明らかにすることを目的とした。木村探元は延宝7年(1679),今の鹿児島市平之町に生まれた。13歳の時に艇児島の絵師小濱常慶について学んでいる。以後,明和4年(1767)に没するまで70数年間に及ぶ作画活動が行われることになるのだが,この作画活動時期は,画風展開や探元の事跡からおおよそ次の三つの時期に区分することができる。すなわち,修業時代から二つめか,それ以後晩年に至る作画活動後期である。本報告では,この三つの区分にそって,今回新たに確認された4点の作品「程順則像」「富士春景図」「龍虎図」「鶴図」を中心として探元の面風の推移をたどってみたい。1.作画活動前期探元が鹿児島で学んだ絵師小濱常慶(生没年不詳)は,狩野興益の弟子であり,後に狩野常信について学んでいる。また,やはり探元の師であったとされる薩摩の絵師坂本養伯(1662■1730)も常信の門人であった。この2人に限らず,探元より一世代前の鹿児島の絵師には常信の門人が多い。ところが,探元は25歳の時に,常信ではな<狩野探信守政に入門している。当時の薩摩画坦と木挽町狩野家との強いつながりをえると,これは異例なことと言える。その理由は,のちに常信が養伯に語ったと伝えられている。すなわち,探元が探信に入門したのは,探信の父探幽秘蔵になる和漢の名画を研究するためであった,と。また,探元自身その晩年に,自分の師匠は探信の親探幽である,と語っている。常信は探信の従兄であり義父でもあった。両者の間に強い姻戚関係があったればこそ探元の選択も許されたのであろうが,それにしても,ここには探幽に私淑するという探元の強い意志を認めないわけにはいかない。また,探元が探幽様式を一つの流行として山西健夫171-
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