鹿島美術研究 年報第9号
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ウエーカクではなく,自らの内発的な要求に動かされて修得しようとしたと見ることもできる。られるなど,早くから藷摩画痘の中心的存在として精力的な活動を行うようになる。ところが,作画活動前期の現存作品は,中,後期の作品と比べると数が少ない。そのうちの主なものを挙げると,探信入門以前の作と推定される「罪老人図」,探幽風の大和絵的趣致の高い「玉川図」,更に「守廣」の落款を有する「聖賢図」「竹に双鶴図」等がある。これらの作品は,作風や印章から恐らくこの時期に描かれたと考えられるのであるが,年紀あるいは制作時期を特定する資料に欠けるといううらみがあった。その意味からも,本調査研究において確認された「程順則像」(絹本墨画着彩,62.5X程順則(1663■1734)は琉球を代表する儒者,詩人で,名護親方あるいは名護聖人と呼ばれている。本作品を伝える名護本家の『程氏家譜』(名護親方の条)によると,順則は正徳3年(1713)の7代将軍家継即位に際して,翌正徳4年5月に慶賀掌翰使として鹿児島に立ち寄っている。同年9月に島津家第21代吉貴に従って鹿児島を発つ。同年11月4日,京都伏見にいる時に,順則は吉貴から,江戸公務が済んで後,帰途,鹿児島で木村探元の絵に題賛を書くようにとの命を受けた。そのために順則は,公務を終えて,翌正徳5年(1714)2月2日鹿児島に到着すると,他の使節の一行とはしばし離れて一人滞在している。「程順則像」は,その時に制作されたという伝承を持っている。本図には,唐装束で座す順則の姿が揺かれており,髭をたくわえた端正な顔つきは,順則の厚徳の人柄をよく伝えている。順則の手前に開いて置かれた書物と背後にある机上の本は彼の学識の豊かさを暗示している。また,机上の一輪挿に活けられた赤い珊瑚は南国的な雰囲気を醸し出しており,画面右側に配された桜の樹という日本的な題材と好対照をなしている。画面左側には探元自筆で「雪堂行楽図呈程寵文老先生併求教正」の銘と「薩陽探元筆」の落款かあり,その下に朱文方印「懐雲」と白文方印「黄瑞居士」の2顆を捺す。雪堂は順則の号。寵文は字である。画面全体から謹直な作画態度を伺うことのできる作品であり,探元37歳という作画活動前期における手固い描写が見てとれる。このことは,同時期の他の作品にも共通している。作画活動前期の探元は,探幽様式を忠実に学ぼうとしている。ただし,本図の衣文線に見られる硬質な表現は柔和な探幽のそれとは異質なものであり,ここに探元独自の資質を見ることができよう。27歳で帰郷して以後の探元は,艇児島城本丸造営に際して主要な部屋の作画を命じ39.5cm)は,作画活動前期における制作時期を推定しうる作品として貴重なものである。-172-

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