2.作画活動中期40歳を過ぎた頃からの作品には,探幽様式にのっとりながらも,それを自己のもの166.6cm)である。横長の大画面に,龍虎が対角線上に対峙するように描かれている。「程順則像」は探元の作画活動前期における基準作となるものであり,薩摩と琉球の文化的な交流を示す資料としても賞重である。として消化した後の余裕のある表現が見られる。そして,雪舟様式や宋元絵画に対する関心が高まり,幅広い作風を示すようになる。この時期からは,年紀の記された作品かいくつか確認される。例えば,「西王母」(1723年),「雲龍図」(1725年),「党舜之図」(1727年),「東方朔」(1728年),「竹林山水図」(1730年)等である。新出査料である「富士春景図」(紙本墨画淡彩,57.7Xl02.8cm)は,年紀はないものの,賛及び落款から作画活動中期の制作になるものと考えられる。本図の画面右上部に書かれた七言律詩の賛者は,「支那道本題井書」の落款と白文方印「寂他之印」朱文方印「道本」から,清国福建省福清県出身の黄業宗の僧道本(1664■1731)であることがわかる。道本は享保4年(1719)に米日し,長崎崇福寺6代住持となっている。そして,面面左側には探元による落款「齢腐探元祁々子」かあり,朱文方印「浄徳堂法浄」を捺す。探元は享保7年(1722)11月,吉質の命により名を村右衛門と改めた。以後の落款には,造化の神を愈味する「齢腐」と組み合わせて「祁々子」の号を多く用いるようになる。これらのことから本作品は,探元が祁々子と号した享保7年から道本の没した享保16年(探元44歳〜53歳)までの作品であることがわかる。尚,探元の事跡をたどると,享保1似F-(1725) に,探元は鹿児島城下田之浦の潮音院住持不石上人の依頼によってその肖像を揺き,同図に道本か題賛を加えている。これは,当時の二人の交流を示す記録として注目される。さて,「富士春景図」は圃面左上方に雲姻と富士山を配し,その手前の近山には松と桜樹が描かれている。余白をたっぷりととった画面はおだやかな早春の情趣を伝えている。山頂部は三峰に分かたれるなど,伝統的手法にそった典型的な探幽流富士図である。探元は富士図を多く手がけている。作画活動後期には,探幽様式と雪舟に代表される室町水墨画の雰囲気を結びつけた探元様式と呼ぶべき作風を示す富士図を捕いている。本図は,その前段階における富士図と位置づけられよう。同じく作画活動中期の制作と考えられるのが,新出の「龍虎図」(紙本墨画,87.SX風雨や波頭と相侯って,力強さと動きのある構図となっている。-173
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