鹿島美術研究 年報第9号
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3.作画活動後期探元は享保19年(1734)11月27日,京都の近衛家に招かれて,勅許により法橋位を授かる。そして,翌享保20年閏3月6日,近衛家久より大員tの呼び名を賜わった。このことは探元にとって非常に名誉なことと思われたのであろう。以後,没するまでの作品には,さかんに「大戴法橋」の署名を用いている。作画活動後期は,まさに円熟期と言える。現存作品にも,この時期のものが最も多く,先述のように,探元独自の様式を示す優れた作品が見られる。そして,明らかに雪舟様式を示す作品や,高然暉山水と呼ばれる大幅の山水図を多く描いているのも特記される。本報告では,これら多様な作品について逐一言及することはできないが,この時期に制作された珍らしい作品を調査する機会を得たので紹介したい。それは,同一画面上に五つの落款を有する「鶴図」(紙本墨画淡彩,101.1X44.3cm)である。本作品には,双鶴,三羽の雛,旭日,梅竹,亀が描かれている。各々の画題に壼から五までの番号が付され,異なる落款と印章を備えている。以下に列挙する。壼「時員図」白文方印「木村之章」,戴「探元斎守廣」白文方印「天外懐雲」朱文方印「法浄」,参「齢鼻邦々子」朱文方印「薩少卜I武臣米祁々子図甕」,四「法橋探元斎守廣」朱文方印「探元」,五「静隠曳行季六十三」白文長方印「任吾者」朱文方印「浄名第二い流」朱文長円印「浄徳堂」。五番目の落款から,本作品は寛保元年(1741),探元63歳の筆になることがわかる。最初の号「時員」は17歳頃に名のったとされており,印も若年期に使用されたものと推察される。爪から四の落款は各々30歳代,40歳代,50歳代に使用されていたものである。しかし,本図の制作に数十年を要したというのではない。作風や落款の書体から,五つの画題ともほぼ同時期に制作されたものと考えられる。本作品の所蔵家には,書かれた年は不明であるが探元の書状も残されている。それによると,一つ一つの画題を加筆しては先方に手渡していた状況を伺い知ることができる。ただし,それがいかなる意図のもとになされたのかは分らない。作品内容は,狩野派によく見られる吉祥画ではあるが,落款の変遷を自らの手で例示した,他に類例を見ない作品である。本村探元は,江戸時代中期の薩摩にあって,中央の画墳からは比較的自由な立場で,旺盛な制作活動を行った絵師である。それは,辛口批評で知られる田能村竹田が「薩少11の驚師探元は驚風尋常の狩野氏にあらず」と評したことからも伺えよう。探元の作品は,近世絵画史上,興味深い問題を含んでいると言える。本調査研究で,作画活動前期における基準作をはじめ,いくつかの貴重な作品を確認することができたのは,大きな収穫であった。-174-

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