⑳ 焔摩天十九位曼荼羅中尊と五道大神の像容について研究者:早稲田大学大学院文学研究科博士後期課程山本陽焔摩天曼荼羅のうち,天台寺門系の図様として世に知られる烙摩天十九位曼荼羅では,中聰烙摩天が武装形にあらわされる。両界曼荼羅等に於ける古来の焙摩天は半裸で穏やかな菩薩形,また泰山府君神の影靱を受けた後世には唐装であらわされるので,このような武装形は極めて異例である。本研究の主題は,この焔摩天の武装形が何に由来するかを追求することに在った。現存する焙摩天十九位曼荼羅の作例としては,京都国立博物館本と,殆んど同図様の園城寺本,やや細長く構成される法隆寺本があり,白描図像として益田家本,諸腺の配置のみを描いたものが,『阿娑縛抄』,『覚禅紗』,『白宝口抄』に見え,諸尊の配置,とも現存の三図とほぼ一致し,定型となって流布していたことが判る。この『阿娑縛抄』本には「承覚阿聞梨云。法性坊図也。普通用之云々」「世流布十九位曼荼羅。三井寺覚猷僧上奉院本也」と傍記され,この記述に処り,中野玄三は本図様を覚猷の創作になるものと考え,中尊の武装形を密教的な菩薩形の焙摩天から浄土教的な唐装怠怒形の閻魔王へ移行する際の過渡的な姿とする見解を述べている(註1)。しかしこの傍記からは覚猷が上皇に勧めたことは知れても,武装形の烙摩天や十九位曼荼羅の図様を党猷の創案になると読みとることはできない。むしろ,その前に記された「法性坊図也」の法性坊を940年没の諄意とすれば,図様の成立年代は覚猷よりはるかに遡る可能性さえ出る。この件に就てはすでに昨年10月に安嶋紀昭論文に於て「大原図」等の考証から党猷の創作でないことが証されている(註2)。この安嶋論文でもなお,焙摩天の武装形の意味は解明し得ない。インドの在来神や王候の姿である菩薩形から,中国の在来神や王候の姿である唐装への移行の際に,全く性格の異なる武装神の姿となる必然性はない。十九位曼荼羅の烙摩天が武装形に描かれる原因としては他の要素を考えざるを得ない。烙摩天の武装形が十九位曼荼羅に於いてのみ行われたのではないことは,仁和寺蔵白描「地蔵菩薩曼荼羅」中の武装する「焔魔使者」の姿から知ることができる。この武装形の「畑魔使者」も烙摩天の持物である人頭杖と浄破璃鏡を持つので焙摩天と同定できる。この仁和寺本は中国よりの請来図像の転写とされるものであるので,武装形の烙摩天の成立は日本に於てではなく,大陸に於いて考えるべきであろう。(ママ)-179-
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