守護の五道神が一旦中国で土着化し,再び中国仏教の十王信抑の中に組み込まれたものと考えられる。この五道神一五道将軍(五道大神)一五道輪転王としてインド仏教から中国民間信仰に取り入れられ,再び十王の一雌として中国仏教に組み込まれた冥界神の武装形こそが,同じく冥界神の烙摩天に影聾を与え,十九位曼荼羅の中尊の如き武装形の烙摩天像を産み出したのではなかろうか。それでは中国で十九位曼荼羅が成立する当時の五道大神の像容はどのようであったのか。この十九位曼荼羅の下方や,真言系の烙摩天曼荼羅周縁部の五道大神は,中国在来の秦山府君神の像容にならった唐装で筆記具を持つ姿で表されるため,従来の美術史上では,個性の少ない中国道教起源の神の如く見られていた。しかし今回,改めて五道大神の記述を検証するとき,五道大神が記述の上では一貫して武神として把えられて来ていることが読み取れる。先の『普曜経』の記述に続き,『増壼阿含経』では「五道大神之威力」を示すため右手に剣を執る「大鬼神形」を現す場面が記されている。また中国に於ても敦燈の『大目乾連冥間救母変文』に「五道将軍性令悪,金甲明晶剣光交錯」と武装形で記述され,中国に於ける偽経の『加句霊験仏頂腺勝陀羅尼記』の「五道冥司」も「被文甲」の姿で出現する。これらインドより中国に至る記述の中で五道大神は終始武神として考えられていたことが知れよう。ただ,実際の絵画・彫刻の遺品の中で十王図に先行する,明らかに五道大神としての武装形を見出す試みは,会昌の破仏を挟んで中固に残存する仏教遺品が僅かな現在,困難を極めていると言わざるを得ない。9 ■10世紀とされるベゼクリク壁画地獄絵中の甲胄神に五道大神の可能性が指摘され,敦燈画では地蔵と共にしばしば描かれる武装神が五道神と推測されるものの明確な記名はなく,断定はできない。しかし今回の調査の中ではフリア美術館蔵敦煽画の地蔵菩薩の傍らの武装神に五道将軍と記される例,また『阿娑縛抄』に見える異本の烙摩天曼荼羅配置図(像容は描かれず)(前唐院本とあり円仁の請来品の可能性が考えられる)「五道大神」の傍記に「如四天王」とある例を見出せた。四天王は武神であるので,この五道大神の像容も,これにならった武神形であったと推定できる。これらのことにより当時の五道大神信仰とその武装形の概念はより明確になり,種々の地蔵図中の武装神との同定,烙摩天像の変容に及ぼす五道大神の武装形の影曹を考える可能性はさらに深まった。今後の研究に於いては,この焔摩天と五道大神の概念の交流を追求し,さらには従来,烙摩天と(閻魔王)泰山府君のみしか注目されることの無かった中国の多様な冥-182-
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