鹿島美術研究 年報第9号
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らの形となっている。以上のことから,光月院像は鎌倉時代頃に,飛鳥・白鳳時代頃の金銅仏を木彫仏に写した珍しい例として位置づけた。光月院像は現在厚い江戸時代の漆箔に殷われて,構造の詳細が不明であるので,より確実で多くの情報を得るために,今回これを財団法人元興寺文化財研究所(奈良県生駒市)に依頼して搬入し,X線撮影を行なった。その結果,内剖りは施されていないことがわかった。また重最感から全くの一木造かと思われた像か,首のところで離れていることかわかった。そしてその首の中央に,頭部と体部にかけて長方体状の木片を入れていることもわかった。両部とも,穴を矩形に穿っているか,木片は短く,大分上下に空白がある。頭部と体部の木目は通っているようなので,これはわざわざ箪木を込めたのではないかとも思った。また木片は柄の役割を果たしていないと思われたか,後述の理由からやはり柄以外に思い当たるものはない。首の断面はやや不規則に切っているようである。両手は手首で矧付けている。両手先は後補と考えられた。像底に小さく矩形の穴か穿ってあり,不規則な縦材の木片が見えた。さきの報告書でば載木を込めたのではないか,としたが,今はむしろこれは台座の柄で,なんらかの事故で折れたための残部と考えている。また,像底前部の一段高い部分は,阪王寺像との比較から,裳掛座を切断したものと判明した。この部分に沿って底而は左に傾く形になっていたのを,江戸時代に漆笥を置くときに,左端に補材を足して,現在のようにまっすぐの姿勢にしていることがわかった。これから推測すると,当初の像は右へ傾いたままの彫刻であったか‘,何らかの事故ののちまっすぐの姿勢に矯正し,そのとき首を一旦切り離し,まっすぐに正常にしたのではないかと推測している。当初の像は,裳掛座を持つ阪王寺の銅造像のように首が傾いていたものを摸刻した可能性も考えられる。光月院のある高石市は堺市の隣で,大和への道,竹内街道,長尾街道に比較的近い。大陸からの門戸である泉州地方に光月院像の原形(医王寺像のように小さい)である銅造仏が存在した可能性は高い。光月院像については,両手を同じ高さにしているところから本来の諄名を比定する作業,より厳密な製作期の検討,また,本像はクス材で製作されているようであるが,その理由の研究など,まだまだ問題は多い。今は金銅仏を木彫仏に写した例であるこ189-

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