鹿島美術研究 年報第9号
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ところで,本像のように,肉髯と地髪の境が不明瞭で,ネットを真深かに被ったような頭部を持ち,腹部に二本の線を表した如来像は,薬師如来であって,10世紀半ばから11世紀初めに集中しており,しかも天台系寺院において製作されたらしい(清水善三氏「長源寺薬師像について」『仏教芸術第101号』)。この説から,本像は本来は薬師如来像であった。しかも天台系の可能性が極めて強い。そして時代は下るか,太平寺は元禄4年(1691)の記録『堺市史続編第四巻』によると,当時如法経(法華経)供養のための燈篭があった。これから天文13年当時天台宗であったことがわかり,阿弥陀像は天台薬師であったとしてほぼ間違いないであろう。製作期は,球体の張り詰めた頭部,ほぼ水平に前に出て分厚く,全体に重厚な趣の表現,そして背面の大きな内考ljりなどから10世紀前半頃と考えられる。したがって,『人間の美術4平城の爛熟』(1990年2月学習研究杜)の八世紀の作とする考えとは一致しない。本像の頭部は球体で,眼部は半球に近く,眼を彫り表しておらず,鼻は鼻炭が横に開き,唇はめくれるように表している。これによく似た面貌の像が同じ堺市金福寺の地蔵菩薩立像と隣市の泉大津市浄土宗机徒の十一面観音立像であるか,両像とも眼は浅く彫り表している。これは後世の所作である可能性.もある,しかし両像とも頭部に内判りはなく,体部背面の首の下から地付きまでかなり大きく内倉ljりを施しているところか,太平寺像の構造と共通している。金福寺像の股部の線は山形で,太平寺像のそれと同じである。三像が同じように翻波を見せない太い懐であるところも共通する。翻波を見せない太い懐は,この種天台薬師像に共通しており,これらのことから,三像はほぼ同じ10世紀前半頃の製作が考えられる。さて,太平寺像が眼を彫り表していない点については,本当に最初から眼を表していなかったかもしれないか,唐招提寺の仏頭のように,乾漆で仕上げてその上に眼を刻描する手法(吉田友之氏「古代の美術」『堺市史続編第一巻』)であったかもしれない。あるいは,これは類例のないことであるか,目頭,鼻炭,口端などに白土が見られるところから,当初は彩色仕上げであって,これに眼を揺き表していた可能性はどうであろうか。眼のない仏像については,もう少し類例を精査しなければならない。以上,課題について一定の成果を上げることができたと思う。これからは,助成により収集した資料を基に,大阪の異形式像について調査・研究を重ね,大阪の仏像の持つ問題を少しでも解決していきたい。-191-

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