にl隠れるのではなく,ひとけ(人気)の交りのある佳処を以て帰隠するという表現がなわち当時の禅林の好ましくない情勢を批判し,三教一致の趣旨を明らかにするために図を抽かせたとする所は,雅びなる遊びとしての性格を越えた,ある目的すら感じさせるのである。また文安3年(1447)「竹斎読書図」(東京国立博物館蔵)や永享5堂蔵)等においても同様の傾向が表われていることに注意してみる必要があろう。初期である応永期の詩画庫庸においては,詩文は五山僧達の隠逸の志を貰くものあるいは「隠」と「仕」との葛藤の心梢を書き記すものであった。それに加え,教訓性の表出も一大傾向として表われている。応永2年(1413)「渓隠小築図」(金地院蔵)初期の古式的な図様は漸次成熟した圃面となり,またバランスのとれた高さへの志向の表現か「三益斎図」等に見られるようになる。永享期になると新たな傾向としてーガで復古的様札1を示す作品が現われる。つまリ帰隠の新局面として,永享^9年(1437)頃の「il:山之隠図」を例に,人里離れた山中表われるに至っている。圃面構成においては永卓期以降,圃,11mに一定の空間あるいは余白か設けられるようになり,詩文に従属的であった面而かだんだん独自化へと進む要因になることとして考えられる。理想境地を図示する傾向から描写において万実の追求が行なわれていくのがまた一つの詩圃抽の特徴となっていくことに注目する必要がある。詩圃判]を語る際に,所謂周文様というものか,その目ざすところを示し,それ以後を与えた圃駁の様相までをも提示している点で注日すべきであろう。作品における伝周文とはその一人の圃業を推察させるとともに,同時期に行なわれた周辺面人のものをも一括しており,脱個人的性格を持つものであったと言えよう。周文様の大きな特徴としては,写実よりは作られる画面をその栢髄としていったことである。周文という名の支配下にあった周辺圃人達はそれからの解:放を果たし,その後ようやく絵ごころの自由な表出が可能になっていくと言えるのであるが,皮肉にもまもな年(1433)「聴松軒図」(東京,静嘉堂蔵),応永25年(1418)「三益斎図」(東京,2.室町詩画車ill3.詩画軸における周文様-193-
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